災害への備え

 

災害救助ヘリ(自宅周辺にて)


災害の映像をみると家が家財であふれているものが多い。

豪華な家、大事な家財、貴重品。

これらが非難の妨げになるだろう。

そしてつけ加えるなら脱税。

 

脱税のたまりは自宅周辺に現物で隠すことが多い。

つまり追徴と災害時に持ち出しにくいという二重のリスク。

持ち出せなければ脱税をする意味がない。

 

家にお金をかけない。貴重品は家におかない。脱税をしない。

ガソリンをこまめに入れ、身の回りをシンプルにする。

これらが災害へ備えるための基本。

リュック一つで避難所へ逃げれるように整えておこう。

2023年のビッグブラザー

 

ビッグモーター、ジャニーズ、宝塚歌劇団統一教会自民党

共通しているのは、

モラルハザードコンプラ意識の欠如、ハラスメントの常態化、拝金主義。

そしてどれもビッグブラザーを頂点とする全体主義

日本社会はそんな事例であふれている。

 

ジョージ・オーウェルの描いた未来は暗く、

『ヨーロッパ最後の人間』がビッグブラザーを崩壊させることはなかった。

今年はその崩壊過程がはじまった記念すべき年。

令和のビッグブラザーは思っているほど強くない。

考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その4)

(考察その3の続き)

 

アリーテ姫はしばしば自分の手をじっと見て、「自分の中にも魔法があるはずだ」と自分の可能性を信じ、そして行動する。

 

 『アリーテ姫』とはあきらめない少女の物語である。彼女は何をあきらめないかって? 自分自身のことを、だ。
 だが、現実にあまた存在する人生の中には、そうした自己実現への可能性を口にすることも許されなかったようなものも多くあってしまう。自己実現が成し遂げられる側の河の岸辺にいる人は、それだけで幸運である。その対岸にはどんな不遇さが存在していてしまうのだろうか。さまざまな虐待、あるいは、例えば戦争。*1

 

心理学者のユングは「中年の危機」を「人生の正午」と名付け、老後に向かう前に自分の人生を振り返る折り返し地点と表現している。アリーテ姫での監督は自身の葛藤から目をそらさず、それを作品に投影した。アリーテ姫はSFであり、ファンタジーであるが、また現実でもある。魔法は何も解決しない。自分の手をじっと見つめるアリーテ姫は、監督自身でもあり、現実に生きる観客自身でもある。

 

観客動員は芳しくなく、この方向性がいかに興行的に難しいか熟知したはずだ。それでも、監督の挑戦は「マイマイ新子」、「この世界の片隅に」へと続く。本当に自分に正直な人だと思う。

 

(おまけ)

片渕監督は「アリーテ姫」制作中に黒澤明の未完の脚本を完成させるという仕事をしている*2。「片渕さん以外に思いつかなくって」という田中栄子の指名で。依頼内容は「黒澤監督流に仕上げてくれということじゃないんです。片渕さん流に、全然別のものになって構わない。むしろ、そうあってほしいわけです」というもの。片渕監督への全面的な信頼があっての依頼である。「アリーテ姫」は黒澤監督の「生きる」に通じるものもあるし、庶民の描き方や視点もどこか黒澤流ヒューマニズムに通じるものがある気がした。この未完の脚本は未だに作品化されていないが*3、非常に興味をそそる。

 

黒澤明が「生きる」を制作したのは30代後半から40代初め。ひょっとしたら黒澤明の「生きる」もまた片渕監督と同じく中年の危機から生まれた作品なのかもしれない。

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その3)

(考察その2の続き)

 

中年の危機を背負ったアリーテ姫は、原作との距離を広げていく。

 

ここは原作には申し訳ないところなのだけれど、世界にはそうやすやすと主人公に微笑みかけてもらいたくなどない。ここは厳然と厳しい顔でい続けてほしかった。そういう意味では、原作から逸脱していこうとしているのは間違いない。
 いっそ『アリーテ姫』でもなく、『アレーテ姫』とか『アレイテ姫』でいいんじゃないかなあと考えてしまう。原作の邦訳「アリーテ姫の冒険」は、この時点よりもう8年くらいも前に出版された本だったし、新聞紙上などでもてはやされていた頃からもだいぶ経つ。原作のネームバリューに今さらおんぶするまでもなかったわけで。
 この当時はまだパソコンなんて持っていなくって、文字の仕事はシャープのワープロ「書院」でやっていた。そこに入っているシナリオの表紙に『アレーテ姫』と題名を打ち込んでみる。ちょっと字面を眺めて、すぐにやめ、『アレイテ姫』としてみる。次いで、脚本本文の「アリーテ」という文字も全部「アレイテ」に打ち変えてしまった。
 案外なことに、この仮題名は、誰からも何の反対も受けないまま、かなり長生きしてしまう。なので、しばらくそんな題名の映画だと思って仕事をしていた。*1

 

かくして「アリーテ姫」は「アレイテ姫」に置き換わる。

 

そして監督の中年の危機は「アリーテ姫」の制作にもハッキリ表れることになる。

 

 自分にとって劇場長編を作るということは、正当な漫画映画の復権を目指すことを意味した。前々から温めていた『アリーテ姫』にも、そうした匂いはふんだんにふくませようとしていた。魔法使いボックスがレオナルド・ダ・ヴィンチ的な(あるいは全日空の旧マーク的な)空飛ぶ乗り物でやってくるのは、物語中盤、アリーテ姫にそれを操縦させ、金色鷲と空中戦をさせようとしていたからだった。あまつさえ、マストが折れ、帆(というかローター)が使えなくなってからは、魔女の鍋状のそのゴンドラから着陸脚として大きなカエルの脚が生え、ピョンピョン跳ね回らせようとすら考えた。

 そうしたドタバタこそ自分の真骨頂だと思っていた。*2

 

片渕監督の作品をすべて観ているわけではないが、「魔女の宅急便」や「名探偵ホームズ」などはドタバタの良さがにじみ出ている。監督自身もそれを自分の真骨頂だと考えていた。ユニークなドタバタが盛り込まれた当初の「アリーテ姫」。完成版では結局そのようなドタバタはほとんど削られることになる。

 

 今回はドタバタには向かわない。それは、それこそ2歳7ヶ月で『わんぱく王子の大蛇退治』を観て以来、染みついてきたものだったが、それよりもここでは、なぜ自分が今あらためてこの映画を作らなければならないと考えたのか、その根本を思い返してみなければ、と思った。その切実な一点に絞って、ほかは捨てる。本質さえ自分自身の前で明らかになっているのなら、それを、例えば台詞劇として表現することも可能なのではないか。
 動かせてみせることなど、今の自分にふさわしくないと捨て、自分自身と、あるいは観客自身の心と地続きなものを作ることだけを考える。それができるならば、この映画を作り始める道も開けるだろう。*3

 

完成版では、ドタバタは捨て、シンプルな本質だけが残った。このときの変化は「マイマイ新子」や「この世界の片隅に」などその後の作品にまでつながっているように思う。

 

考察その4に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その2)

(考察その1の続き)

 

監督のエッセイ「終わらない物語」には「アリーテ姫」について知りたいことがだいたい書いてあった。書かれすぎなぐらい。

 

終らない物語

終らない物語

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この本には様々な事柄がとりとめとなく書かれている。たまたまなのかもしれないが「アリーテ姫」を軸にすえて読むと、映画完成までの監督を追ったドキュメンタリー作品として楽しめる。表紙のアリーテ姫にはそういう意味が込められているように感じた。

 

なおこの「終わらない物語」はWEBアニメスタイル 「β運動の岸辺で」というサイトでも読むことができる。書籍化される際に削られたもの、書き足されたものがあるので完全に同じテキストではないが、引用の際にはできるだけ両方を記しておく。

 

アリーテ姫」の制作過程は下記のとおりである。

 

片渕が原作『アリーテ姫の冒険』の新刊広告を見たのが『魔女の宅急便』参加中の1989年、プロデューサーの田中栄子にそのアニメ企画に誘われたのが1992年、STUDIO 4℃で実際に制作に着手するのは1998年、完成はさらにその2年後の2000年(公開は2001年)と、構想から完成までにおよそ11年かかっている。*1

 

片渕監督は1960年生まれなので、おおよそ30歳から40歳までの10年間を「アリーテ姫」に費やしたことになる。制作は一直線に進んだわけでもなく、途中生活のための出稼ぎに出かけたりもしている。制作を決意した当時の状況は次のとおりである。

 

 原作「アリーテ姫の冒険」は1990年5月に刊行されている。新刊のとき新聞に載った広告を目に留めたのが自分のファーストインプレッションだったのだから、この時点ではそれからすでに7年ほど経ってしまっていたことになる。
 男女共同参画的な観点で意味を持つこの本は、刊行から最初の数年は新聞で取り上げられることもあったが、さすがにそうした話題も途絶えていた。俗な話だが、一言でいうと、この書物を原作にとって映画化する意味は、マーケッティング的にはひじょうに薄い、ということになる。
 この本をネタに一般興行用の映画を作るのはおそらく「業界的非常識」というにほかならない。*2

 

すでにマーケットは冷めており、このタイミングでの映画化は「業界的非常識」である。それにもかかわらず、片渕監督は「アリーテ姫」を手放さなかった。この逆境の中での制作動機は監督の内から湧き上がる「何か」であった。

 

 けれど、ここへきて『アリーテ姫』を作らねばならない気持ちが自分の中に渦巻いてしまっていたのは、ちょっと違っていた。最初に新刊広告としてこのタイトルにであったときには、難しすぎてゴチャゴチャして棘のように、壁のように立ち塞がる「世間」というものを、いともかんたんにヒラリヒラリかわしつつ、自分が目的とするところにたどり着けてしまう、そんな主人公の到来を予感させられたのだった。
 そして、作品作りの上で何度にも渡る挫折を経験してきた自分としては、今ここでそんな主人公の登場する作品で、自分自身が活性化されたかった。
 しかし、ふと思えば、何をもってか自分自身を活性化できるのなら、大なり小なり世の中と渡り合う厳しさに直面している人はたくさんいるはずであるし、そうした人たちに対しても働きかけられる映画になれるのかもしれず、ならば世に問う意味も生じてくるというものだろう。
 もうちょっというと、映画を観ている間だけ世の中の憂さを忘れて気楽になれる、という類のものにはしたくなかった。せつな的な憂さ晴らしではなく、映画を観ることで活力源みたいなものを観た人が自分の中に据えることができるようであってほしい。無謀にもそんなふうに思ってしまった。そうした本質の部分に迫ってゆけるのなら、このものづくりには意味がある、そう思ったのだった。*3

 

”挫折”*4や”自分自身を活性化”というキーワードは少し抽象的だ。監督自身がかかえる切実な問題が、何らかの形でこの映画に投影され、「現実社会で生きる人たちへの活力源となるような映画を目指す」ことが制作動機のように読める。この抽象的な部分に関して、もっと率直に述べている部分がある。

 

 二十代で目の前にあるものにしがみつくようなスタートを切ったとしても、三十代も半ばを過ぎてくると価値観が揺らいできてしまう。もしくは、それまですがりついていた価値観そのものを見直す「眼」のようなものが、なまじっか自己の中にできてしまうのかもしれないが、そうしたものどもが、「お前は今やっていることをこれからも続けてゆくつもりなのか?」と揺るがせにやってくる。

 要するに、この当時、三十代中盤に差しかかって、自分自身がこのままこの仕事の道を歩むことに躊躇を感じていたらしい。

 そこで踏みとどまるのか、転身しちゃうのか。

 

(~途中略~)

 

 そういうことを考えるようになってしまい、「大砲の街」に携わりながらもなおもあれこれ考え続けていた『アリーテ姫』の主人公の身の上にもそうしたものがつけ加わってゆく。

 はじめは漠然と漫画映画的だったものが、もっと切実なものとして自分の中に姿をとり始めるようになってゆく。そんな心境に陥ったときに突破口を示してくれる人物であってほしい、アリーテ姫のことをそう思うようになっていったのだった。

 三十代半ばになると人生が揺らぐ、と自分で勝手に決めつけてしまった。このことはどうも普遍的であるように思えた。

 さらに年を重ねて、やがて、大学の先輩で映画学科卒なのに心理学の先生になってしまった日大文理学部の横田正夫教授からは、それは「中年の危機」という端的な言葉で言い表すのだ、と教わることになる。

 十代半ばの小娘のはずのアリーテは、いつの間にか、「中年の危機」などというものを背負わされることになってしまっていたのだ。*5

 

「中年の危機」を背負ったアリーテ姫。原作と扱うテーマが大きく異なるわけである。

 

考察その3に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:片渕須直 - Wikipedia

*2:WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第97回 まずは、とにかく一歩前に出てみたところ、「終わらない物語」p302

*3:WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第97回 まずは、とにかく一歩前に出てみたところ、「終わらない物語」p303-304

*4:”挫折”に関しては「終わらない物語」p56-57、WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第12回 明日の約束を返せを参照。『ホームズ』制作中止に対する思いが書かれている。「アリーテ姫」、「マイマイ新子」では、”挫折からの快復の道筋を、自分なりに描こうと懸命になっている”としている。

*5:「終わらない物語」p227-229

考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その1)

少し前に片渕須直の映画「アリーテ姫」を初めて観た。ビジュアルやキャラクターがとても素朴で、大げさで派手な演出は抑えられている。それが良い意味で作品を引き立てていた。生きるために大事なメッセージをとても丁寧に語りかけてくれる。良い作品のお手本のような映画だった。

 

この作品からは監督の細部へのこだわりがひしひしと伝わってくる。アリーテ姫には原作があるので、それを読めば監督の「こだわり」が伺えるかもしれない。そう思い、とりあえず原作を読んでみた。

 

アリーテ姫の原作は「The Clever Princess」という童話で、日本では「アリーテ姫の冒険」として出版されている。日本語訳にざっと目を通したが、映画と原作は扱うテーマそのものが全く異なっているように感じた。

 

原作のアリーテ姫は賢さで魔法使いの難題を解決していく物語である。王様が「賢いとお嫁の行き先がない」と嘆き、魔法使いの財宝に目がくらんだ王が姫を無理やり結婚させる。それも解けなければ殺されるという難題付きで。姫はこの押し付けられた難題を知恵で解決していく。男性が主人公、女性はお姫様という冒険物語のテンプレを、この物語では逆に、主人公が女性で、男性が脇役として描いている。しかも男性は醜く描かれている。男性中心社会への批判も込められているのだろう。

 

映画のアリーテ姫では、原作にあるフェミニズム色をかなり抑えている。そのかわり魔法使いによって自己を喪失した姫が、自分との対話を重ねながら再び自己を獲得していく姿を丁寧に描いている。悪役の魔法使いもまた自己を喪失した人物として描かれており、そのコントラストが印象に残る。言葉にすれば他愛もないが“自分らしく生きる”というのがこの作品の主題のように感じた。

 

原作のアリーテ姫を少し単純化してしまえば、賢く、美しく、優しく、身分も高いという現実には存在しがたいチートキャラの活躍を描いた話である。映画のように、さほど美しくもなく、自分の生き方について思い悩む姫とはまるで別人である。賢さについても、映画では原作のような利口であるとか才知があるとかという、“わかりやすい賢さ”とは別の賢さである。自分の奥底からくる湧き出る感情に正直であるという芯の通った賢さのようなものである。

 

どちらの作品にもそれぞれの良さはあるものの、ここまで内容に大きな差があると、原作と映画は別の作品といえる。この違いは何故だろうと考え、何か手がかりはないかと探していると、片渕監督のエッセイ「終わらない物語」を見つけた。表紙はなんとアリーテ姫。何かありそう。

 

考察その2に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

終らない物語

終らない物語

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インボイス増税と内部留保積み上げ

ローカルな資本論のコミュニティ誌から寄稿の依頼がありました。

当初はインボイス制度についての解説だったものが、なぜか内部留保についても言及してほしいという無茶ぶりを受け、専門外ながら加筆したものです。

備忘としてブログにも掲載しておきます。

 

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10月1日からインボイス制度が開始されました。この制度は零細企業や個人事業主に対する実質的な増税です。制度導入による増税額は1兆円と試算されています*1。今までは売上高1000万以下の零細企業は免税事業者と呼ばれ消費税を納める必要はありませんでした。インボイス制度が導入された今、免税事業者はインボイスを登録し、消費税を納める事業者にならないと、取引から排除されたり、値下げを求められたりするおそれがあります。実際に東京商工リサーチが行ったアンケートでは、インボイス制度開始後に「免税業者と取引しない」と答えた企業は9.2%となっています。*2

 

現在多くの中小零細企業は物価高のなか、物価高騰分を価格に上乗せすることができず、苦境に立たされています。消費税もそれと同じで、商品の値上げという命がけの綱渡りに成功しなければ利益を削って納めなければなりません。いままで免税事業者であった零細企業、個人事業主は、物価高とインボイス増税のダブルパンチをうけ、まさに死活問題です。

 

インボイス制度の導入は、消費者が払った消費税を免税事業者が「ネコババ」しているという「益税論」を前提として、その解消を目的としています。この「益税論」は消費税を「消費者が負担する税」という認識から出発しています。法律では消費税は事業者が納めることになっており、その計算は「売り上げの消費税―仕入れの消費税=納める消費税」と定められています。事業者が製品を売ったときに含まれる消費税から商品の仕入れなどの支払いに含まれている消費税を差し引くことで、納める消費税を求めます。「消費者が負担する税」という認識はこの算式から読み取れます。

 

この算式は「(売り上げ-仕入れ)*消費税率=納める消費税」と変換することもできます。この式では売上から仕入れを引いた利益に対して税率をかけて納める税額を求めます。事業の利益に対する税なので「直接税」としての性格を有します。2つの算式のどちらも同じ計算結果になり、納める消費税額も同じです。算式を変えるだけで「間接税」にも「直接税」にもなります。多くの人を惑わす原因がここにあります。

 

 消費税は外国では付加価値税と呼ばれており、その成り立ちは付加価値(利益)に対する課税という認識から始まっています。インボイス制度を推進している政府税制調査会会長(中里実)でさえ、その著書に「日本で通常は間接税として理解されている附加価値税が、実は、企業が生み出した附加価値に対して課される企業課税であるという点において、法人所得税と極めて類似しているということに関する正確な理解が重要である。」*3と書いています。付加価値(利益)に対する税というのが消費税の本質です。この立場から消費税を見れば「益税」という考え方は成り立ちません。

 

 付加価値に対する税とは何か、もう少し解像度を上げて説明したいと思います。消費税の計算には、先ほどみた2つの算式以外の考え方があります。それは「(企業利益+人件費+土地代+支払利息)*消費税率」=納める消費税額」というものです。この式は戦後GHQ統治下の日本でシャウプ税制使節団により新たな事業税として勧告されたものです*4。実はこの算式が現在世界中で採用されているEU付加価値税の導入に影響を与えたと言われています。この式からはおおざっぱにみて「利益と人件費」に課す税ということがわかります。戦後日本の産業促進には工場や機械などへの設備投資が急務でした。シャウプ博士はそれらの設備投資に課税しない方法を模索していたのです。この新たな税は「利益と人件費」を付加価値として課税する一方で「設備投資」は付加価値ではないので課税しません。つまり付加価値税を導入するための発想の根幹は産業資本の優遇だったのです*5。また大企業は賃金を上げようとせず、消費税の計算では人件費としてカウントされない派遣やフリーランスへの置き換えを絶えず行っています。この企業行動も消費税が「人件費」に課されるため、それを回避するための行動とみることができます。

 

消費税を「利益と人件費に課される税」と説明すると大企業でも零細企業でも同じに見えるかもしれません。しかし価格の競争力は零細企業が圧倒的に弱い立場です。大企業は自分の利益を確保するために消費者や取引先に価格の見直しを迫ります。取引の下流に行けば行くほど価格の決定権が弱まります。消費税率が上がっても、その分の値上げができなければ利益を削って納めることになります。

 

マルクス資本論で「G(貨幣資本)-W(商品資本)…P(生産過程)…W‘(商品資本)-G’(貨幣資本)」という資本の循環式で、資本の増殖過程を分析しています(商品資本Wは労働力Aと生産手段Pmに分かれます)。この循環式に現在の税制をあてはめてみると、税金がいかに資本のために使われているかよくわかります。労働力Aに対しては雇用促進減税や教育訓練費減税、生産手段Pmに対しては投資促進減税、生産過程Pでは研究開発費減税という具合です。貨幣資本G‘に変わる場面では法人税率を絶えず引き下げてきました。法人税率を下げた減収分は消費税の増税分がその穴埋めに充てられています。先日発表された経団連の税制提言*6では少子化対策や軍事費の財源については、消費税増税所得税増税という大衆課税を求め、またもや企業負担を逃れようとしています。

 

資本増殖の妨げになるあらゆる負担は徹底的に回避し、さらなる資本増殖のために減税や規制緩和を求める。マルクスが「資本の魂」と名付けたとおりの現実です。その結果が大きくふくれあがった510兆円という巨額の内部留保であり「失われた30年」という経済の停滞です。税をさらなる資本増殖のために使うのではなく、暮らしのために使う。インボイス制度の廃止、消費税の減税、大企業に対する相応の税負担。これらがいま求められています。

 

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*1:岸田政権また増税…10月に「インボイス制度」導入で1兆円徴収、国民には大ダメージ|日刊ゲンダイDIGITAL

*2:インボイス、非登録業者と「取引しない」1割 民間調べ - 日本経済新聞

*3:中里実「租税史回廊」p56

*4:シャウプ使節団日本税制報告書 第13章

*5:シャウプ勧告13章Aにある「純所得を課税標準とする事業税と比較して、付加価値税は、資本なかんずく労働節約的機械の形における資本の使用に対して不利な差別待遇をしないという、経済的利点をもっている。(途中略)日本では現在工場および設備の近代化が急務の一つであるから、このことは重大な点である。」という記述。またそれに続く文で設備投資による「附加価値」のマイナスを原因とする翌課税期間の繰越控除まで考慮していることなどから産業資本優遇の思想が読み取れる。

*6:経団連:令和6年度税制改正に関する提言 (2023-09-12)