考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その4)

(考察その3の続き)

 

アリーテ姫はしばしば自分の手をじっと見て、「自分の中にも魔法があるはずだ」と自分の可能性を信じ、そして行動する。

 

 『アリーテ姫』とはあきらめない少女の物語である。彼女は何をあきらめないかって? 自分自身のことを、だ。
 だが、現実にあまた存在する人生の中には、そうした自己実現への可能性を口にすることも許されなかったようなものも多くあってしまう。自己実現が成し遂げられる側の河の岸辺にいる人は、それだけで幸運である。その対岸にはどんな不遇さが存在していてしまうのだろうか。さまざまな虐待、あるいは、例えば戦争。*1

 

心理学者のユングは「中年の危機」を「人生の正午」と名付け、老後に向かう前に自分の人生を振り返る折り返し地点と表現している。アリーテ姫での監督は自身の葛藤から目をそらさず、それを作品に投影した。アリーテ姫はSFであり、ファンタジーであるが、また現実でもある。魔法は何も解決しない。自分の手をじっと見つめるアリーテ姫は、監督自身でもあり、現実に生きる観客自身でもある。

 

観客動員は芳しくなく、この方向性がいかに興行的に難しいか熟知したはずだ。それでも、監督の挑戦は「マイマイ新子」、「この世界の片隅に」へと続く。本当に自分に正直な人だと思う。

 

(おまけ)

片渕監督は「アリーテ姫」制作中に黒澤明の未完の脚本を完成させるという仕事をしている*2。「片渕さん以外に思いつかなくって」という田中栄子の指名で。依頼内容は「黒澤監督流に仕上げてくれということじゃないんです。片渕さん流に、全然別のものになって構わない。むしろ、そうあってほしいわけです」というもの。片渕監督への全面的な信頼があっての依頼である。「アリーテ姫」は黒澤監督の「生きる」に通じるものもあるし、庶民の描き方や視点もどこか黒澤流ヒューマニズムに通じるものがある気がした。この未完の脚本は未だに作品化されていないが*3、非常に興味をそそる。

 

黒澤明が「生きる」を制作したのは30代後半から40代初め。ひょっとしたら黒澤明の「生きる」もまた片渕監督と同じく中年の危機から生まれた作品なのかもしれない。

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4