考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その2)

(考察その1の続き)

 

監督のエッセイ「終わらない物語」には「アリーテ姫」について知りたいことがだいたい書いてあった。書かれすぎなぐらい。

 

終らない物語

終らない物語

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この本には様々な事柄がとりとめとなく書かれている。たまたまなのかもしれないが「アリーテ姫」を軸にすえて読むと、映画完成までの監督を追ったドキュメンタリー作品として楽しめる。表紙のアリーテ姫にはそういう意味が込められているように感じた。

 

なおこの「終わらない物語」はWEBアニメスタイル 「β運動の岸辺で」というサイトでも読むことができる。書籍化される際に削られたもの、書き足されたものがあるので完全に同じテキストではないが、引用の際にはできるだけ両方を記しておく。

 

アリーテ姫」の制作過程は下記のとおりである。

 

片渕が原作『アリーテ姫の冒険』の新刊広告を見たのが『魔女の宅急便』参加中の1989年、プロデューサーの田中栄子にそのアニメ企画に誘われたのが1992年、STUDIO 4℃で実際に制作に着手するのは1998年、完成はさらにその2年後の2000年(公開は2001年)と、構想から完成までにおよそ11年かかっている。*1

 

片渕監督は1960年生まれなので、おおよそ30歳から40歳までの10年間を「アリーテ姫」に費やしたことになる。制作は一直線に進んだわけでもなく、途中生活のための出稼ぎに出かけたりもしている。制作を決意した当時の状況は次のとおりである。

 

 原作「アリーテ姫の冒険」は1990年5月に刊行されている。新刊のとき新聞に載った広告を目に留めたのが自分のファーストインプレッションだったのだから、この時点ではそれからすでに7年ほど経ってしまっていたことになる。
 男女共同参画的な観点で意味を持つこの本は、刊行から最初の数年は新聞で取り上げられることもあったが、さすがにそうした話題も途絶えていた。俗な話だが、一言でいうと、この書物を原作にとって映画化する意味は、マーケッティング的にはひじょうに薄い、ということになる。
 この本をネタに一般興行用の映画を作るのはおそらく「業界的非常識」というにほかならない。*2

 

すでにマーケットは冷めており、このタイミングでの映画化は「業界的非常識」である。それにもかかわらず、片渕監督は「アリーテ姫」を手放さなかった。この逆境の中での制作動機は監督の内から湧き上がる「何か」であった。

 

 けれど、ここへきて『アリーテ姫』を作らねばならない気持ちが自分の中に渦巻いてしまっていたのは、ちょっと違っていた。最初に新刊広告としてこのタイトルにであったときには、難しすぎてゴチャゴチャして棘のように、壁のように立ち塞がる「世間」というものを、いともかんたんにヒラリヒラリかわしつつ、自分が目的とするところにたどり着けてしまう、そんな主人公の到来を予感させられたのだった。
 そして、作品作りの上で何度にも渡る挫折を経験してきた自分としては、今ここでそんな主人公の登場する作品で、自分自身が活性化されたかった。
 しかし、ふと思えば、何をもってか自分自身を活性化できるのなら、大なり小なり世の中と渡り合う厳しさに直面している人はたくさんいるはずであるし、そうした人たちに対しても働きかけられる映画になれるのかもしれず、ならば世に問う意味も生じてくるというものだろう。
 もうちょっというと、映画を観ている間だけ世の中の憂さを忘れて気楽になれる、という類のものにはしたくなかった。せつな的な憂さ晴らしではなく、映画を観ることで活力源みたいなものを観た人が自分の中に据えることができるようであってほしい。無謀にもそんなふうに思ってしまった。そうした本質の部分に迫ってゆけるのなら、このものづくりには意味がある、そう思ったのだった。*3

 

”挫折”*4や”自分自身を活性化”というキーワードは少し抽象的だ。監督自身がかかえる切実な問題が、何らかの形でこの映画に投影され、「現実社会で生きる人たちへの活力源となるような映画を目指す」ことが制作動機のように読める。この抽象的な部分に関して、もっと率直に述べている部分がある。

 

 二十代で目の前にあるものにしがみつくようなスタートを切ったとしても、三十代も半ばを過ぎてくると価値観が揺らいできてしまう。もしくは、それまですがりついていた価値観そのものを見直す「眼」のようなものが、なまじっか自己の中にできてしまうのかもしれないが、そうしたものどもが、「お前は今やっていることをこれからも続けてゆくつもりなのか?」と揺るがせにやってくる。

 要するに、この当時、三十代中盤に差しかかって、自分自身がこのままこの仕事の道を歩むことに躊躇を感じていたらしい。

 そこで踏みとどまるのか、転身しちゃうのか。

 

(~途中略~)

 

 そういうことを考えるようになってしまい、「大砲の街」に携わりながらもなおもあれこれ考え続けていた『アリーテ姫』の主人公の身の上にもそうしたものがつけ加わってゆく。

 はじめは漠然と漫画映画的だったものが、もっと切実なものとして自分の中に姿をとり始めるようになってゆく。そんな心境に陥ったときに突破口を示してくれる人物であってほしい、アリーテ姫のことをそう思うようになっていったのだった。

 三十代半ばになると人生が揺らぐ、と自分で勝手に決めつけてしまった。このことはどうも普遍的であるように思えた。

 さらに年を重ねて、やがて、大学の先輩で映画学科卒なのに心理学の先生になってしまった日大文理学部の横田正夫教授からは、それは「中年の危機」という端的な言葉で言い表すのだ、と教わることになる。

 十代半ばの小娘のはずのアリーテは、いつの間にか、「中年の危機」などというものを背負わされることになってしまっていたのだ。*5

 

「中年の危機」を背負ったアリーテ姫。原作と扱うテーマが大きく異なるわけである。

 

考察その3に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:片渕須直 - Wikipedia

*2:WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第97回 まずは、とにかく一歩前に出てみたところ、「終わらない物語」p302

*3:WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第97回 まずは、とにかく一歩前に出てみたところ、「終わらない物語」p303-304

*4:”挫折”に関しては「終わらない物語」p56-57、WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第12回 明日の約束を返せを参照。『ホームズ』制作中止に対する思いが書かれている。「アリーテ姫」、「マイマイ新子」では、”挫折からの快復の道筋を、自分なりに描こうと懸命になっている”としている。

*5:「終わらない物語」p227-229