考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その1)

少し前に片渕須直の映画「アリーテ姫」を初めて観た。ビジュアルやキャラクターがとても素朴で、大げさで派手な演出は抑えられている。それが良い意味で作品を引き立てていた。生きるために大事なメッセージをとても丁寧に語りかけてくれる。良い作品のお手本のような映画だった。

 

この作品からは監督の細部へのこだわりがひしひしと伝わってくる。アリーテ姫には原作があるので、それを読めば監督の「こだわり」が伺えるかもしれない。そう思い、とりあえず原作を読んでみた。

 

アリーテ姫の原作は「The Clever Princess」という童話で、日本では「アリーテ姫の冒険」として出版されている。日本語訳にざっと目を通したが、映画と原作は扱うテーマそのものが全く異なっているように感じた。

 

原作のアリーテ姫は賢さで魔法使いの難題を解決していく物語である。王様が「賢いとお嫁の行き先がない」と嘆き、魔法使いの財宝に目がくらんだ王が姫を無理やり結婚させる。それも解けなければ殺されるという難題付きで。姫はこの押し付けられた難題を知恵で解決していく。男性が主人公、女性はお姫様という冒険物語のテンプレを、この物語では逆に、主人公が女性で、男性が脇役として描いている。しかも男性は醜く描かれている。男性中心社会への批判も込められているのだろう。

 

映画のアリーテ姫では、原作にあるフェミニズム色をかなり抑えている。そのかわり魔法使いによって自己を喪失した姫が、自分との対話を重ねながら再び自己を獲得していく姿を丁寧に描いている。悪役の魔法使いもまた自己を喪失した人物として描かれており、そのコントラストが印象に残る。言葉にすれば他愛もないが“自分らしく生きる”というのがこの作品の主題のように感じた。

 

原作のアリーテ姫を少し単純化してしまえば、賢く、美しく、優しく、身分も高いという現実には存在しがたいチートキャラの活躍を描いた話である。映画のように、さほど美しくもなく、自分の生き方について思い悩む姫とはまるで別人である。賢さについても、映画では原作のような利口であるとか才知があるとかという、“わかりやすい賢さ”とは別の賢さである。自分の奥底からくる湧き出る感情に正直であるという芯の通った賢さのようなものである。

 

どちらの作品にもそれぞれの良さはあるものの、ここまで内容に大きな差があると、原作と映画は別の作品といえる。この違いは何故だろうと考え、何か手がかりはないかと探していると、片渕監督のエッセイ「終わらない物語」を見つけた。表紙はなんとアリーテ姫。何かありそう。

 

考察その2に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

終らない物語

終らない物語

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