映画:「かぐや姫の物語」(考察その4)

 

考察その3からの続き

 

・私たち自身の物語

かぐや姫の悲劇は「地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語」と企画書に書かれている。実際に映画は「生きる」ということが主題として描かれている。おおざっぱに区切ると映画前半では豊かな自然と豊かな人間関係に囲まれた”生きている姫”が描かれ、後半では”生きれない姫”、”死にたい姫”が描かれている。後半からは延々と悲劇を見せつけられることになる。それらが現代に生きる人の悲劇と重なり、映画の中で観客は”現実を見せつけられる”ことになる。エンディングでは観客自身が”生きる”というテーマを自分事として考えずにはいられなくなる。

 

ところで、これだけ”姫の悲劇”を見せつけられる一方で、監督からは「地球の肯定」や「現世の肯定」など相反するような視点からも語られている。どういうことだろうか。

 

インタビュアー:人間的な感情や欲望があり、さまざまな色に満ちている人間界というものがそもそも罪なんだということですよね。しかし、すべて純潔で清浄な月世界にとってはそれは罪だけれど、当の人間にとってはかけがえのないことであって、その罪や穢れも含めて現世を肯定しようという意志を感じました。

高畑:まさしくそういうことです。*1

 

これだけの悲劇をみせつけられて、それでも現世の肯定しているのか。疑問が残る。同じようにアフレコ途中の地井武男氏とも次のようなやりとりがある。こちらの方が監督の主張がより明確でわかりやすい。

 

地井:わからないことだらけなんで、いろいろ教えていただかないと。なんで突然月からきて、また突然帰ってしまうのか?この地球にいる我々が持っている欲望とかそういうものに対する警鐘みたいなことなんですか?

高畑:困りました。

地井:乱暴な言い方だけど地球は否定した方がいいのか肯定した方がいいのか。

高畑:地球がいいと言っているつもりなんです。これだけで。地球がよくてせっかく来たのに月に帰らなくてはいけなかった。地球を十分享受しないまま帰ってしまうんです。この子は。地球肯定の作品なんだけど、それをひっくり返して描いている。せっかく来たのに十分地球を楽しむことなく後悔しながら帰るという。*2

 

地球は肯定しているが、それをひっくり返しているという点がポイントである。単純に肯定しているわけではない。地球には魅力がたくさんあるが、それを享受することができない悲劇を描いているというわけだ。悲劇までをも全肯定しているわけではなく、悲劇は悲劇として監督は認識している。

 

・漫画映画の志

高畑は「漫画映画の志」でグリモーの「やぶにらみの暴君/王と鳥」を批評し、平和のために「役に立つ映画」について次のように自説を述べている。この作品は日本公開時に「スタジオジブリの原点」と宣伝されている。

 

作品の根底にあったのは、人も生き物も草木も、太陽と地球が与えてくれる単純で美しい《地球の不思議》を享受しながら、生き生きと生きることができなければならない、という思いです。


(~途中略~)


そういう《世界の不思議》を享受する自由を奪われないために、そして、その自由を奪われている他人の不幸に思いをいたし、それを取り戻させるために、はっきりと役に立つ漫画映画とは何か。ほんとうに「役に立つ」ためには、自由を妨げる専制や抑圧や戦争に反対する「心意気」を打ち出したり、映画の中で首尾よく正義に勝たせて観客の「善意」や「正義感」を満足させたりするだけでは足りない。個々人がまず、世の中がどういう仕組みになっているかを感知し、この世にはりめぐらされた「罠」に気をつけ、しっかりと目を見開いて生きようとすること、そしてときに自由意思で人と手をつなぎ合う必要性を感得すること。これらに役立ってはじめて、「役に立つ」と言えるのだ、と二人は考えていたとはわたしは思います。こういう言葉を使うことをプレヴェールやグリモーは嫌うかもしれませんが、いわば、自由な個々人による民主主義の基盤づくりに役立つ映画です。*3

 

高畑はこの批評のあとにグリモーの「志」を少しでも受け継げたか「ジブリの原点」などと呼んでよいのかについて自己批判を行い、反省している。

この本が出版されたのが2007年5月であり、かぐや姫の制作決定が2008年5月である。高畑の頭の中に「漫画映画の志」がないはずがない。

 

高畑は、かぐや姫が「生きる手ごたえ」を求めたように、観客の中にも「生きる」とは何かという「種」を残し、それがいつか芽吹くことを望んだのではないだろうか。

 

・おまけ:マルキストの香り

かぐや姫の物語」は日テレの会長であった氏家齊一郎パトロンとなり資金を出した映画である。氏家氏が高畑にほれこんだ理由に「マルキストの香り」をあげている。先の「地球を肯定しているが、それを享受できない人類」という構図はマルクスの”疎外論”に通じている。マルクスの”疎外論”とは次のようなものである。

 

「人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出すること。また、その中での、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態」(大辞泉

 

この「疎外」を「かぐや姫の物語」に当てはめると、

 

自然や生き物などの肯定すべき美しい「地球」がある一方で、人間が作り出した社会制度、貨幣制度、身分制度、またそこから派生する格差(高貴の姫君という虚像の幸せ、木地師や捨丸)、それらが逆に人間を苦しめ、人間本来の自己を喪失した状態

 

と言い換えることができるかもしれない。マルクス疎外論もまた今なお解決していない人類の課題である。映画では木地師の生業を丁寧に描いている。このような循環型経済が地球や自らの生を享受するためのヒントとして呈示しているようにもみえる。

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:ユリイカ2013年12月号p73

*2:メイキングDVD:かぐや姫の物語をつくる。(挑戦編)

*3:高畑勲「漫画映画の志」p271-272