映画:「かぐや姫の物語」(考察その2)

 

考察その1の続きです。

 

・「かぐや姫の物語」は「竹取物語」の謎解きか?

高畑は原作の「竹取物語」の”本質”を裏切りを“換骨奪胎”し、かぐや姫側の物語にスポットを当てる。そこに”隠されているはずの挿話”を掘り起こし、原作では未解決だった数々の疑問にも高畑流の鮮やかな解を与える。「竹取物語」を古典ではなく現代劇として作り替える。それでいて、あたかも原作に忠実なようにみせる。どれも常人には成し遂げられない恐るべき仕事である。

 

高畑は原作を“換骨奪胎”し、数々の解を与えることで何を描きたかったのだろうか。単なる古典の謎解きをしたかったのだろうか。現代にこの作品を作る意義をどうとらえていたのだろうか。知りたい。

 

プロデューサーの西村が高畑にストレートな質問をしている。

 

 高畑監督の「かぐや姫」の企画書を読んだときにまず抱いた感想が、「銀河鉄道の夜」の印象と似ていたと述べた。その理由の詳細について書いていこう。

 「竹取物語」の作中で具体的には明かされていない、かぐや姫の犯した罪の内容。その謎を綿密な推理と豊かな想像力によって解き明かしていく行為は、この上もなくスリリングで、有意義であろうことは容易に想像がついた。既存のテキストに対してひとつも嘘をつくことなく、しかし同時に、確かにこうであり得たかも知れない、という新機軸の解釈を打ち出せたとしたら、世紀に残る大傑作になるだろう。日本人なら誰もが知っている作品でありながら、誰もが見落とし、誰もが手をつけてこなかった宝の山がいま目の前にある。想像するだけでワクワクした。

 しかし一方で、謎として残されていたはずの聖域に踏み入り、一義的に解釈を固定してしまうことで、作品が本来持っていたはずであろうミステリアスな魅力は減じてしまうのではないか、という懸念もあった。謎は謎のまま放置されているからこそ面白いという側面もあるかも知れない。全てを明るみに出すことが最良とは限らない。ちょうど、すべての謎を詳細に解説してしまうブルカニロ博士の扱いに、他ならぬ賢治自身が辟易としたように。

 「かぐや姫」も同様に、丹念に積み上げたものを、どんどん解体していくことでしかその魅力を表現することのできない作品なのではないか。すなわち本作は、「決して完成させることのできない作品」である事実を証明するための企画なのではないか。そういう直観を僕は抱いたのである。

 

生意気にも僕は、こうした感想を率直に高畑監督に伝えた。監督は怒りもせずじっと耳を傾けていたが、話を聞き終わるとタバコに火をつけしばらく黙していた。それからおもむろに口を開いた。「あなたの銀河鉄道の話は興味深かったです。特にいくつかの点については、ほぼあなたに同意できます。でも、この企画に同じ分析が当てはまるとは思えません」

 僕はあっさり自説を引っ込めた。違うというなら違うのだろう。しかし今考えてみるに、実はこのときの発言によって、監督は僕と話す時間を設けることを善しとしてくれた気もする。「この作品はきっと完成しないと思います。」そういう天邪鬼な言葉にこそ、高畑監督は注意深く耳を傾けるタイプの人間であることは、後になってだんだんと分かってきた。*1

 

西村は原作の謎に解をあたえることで、作品の解釈を固定化し、逆に魅力を失わせるのではないか。そのため全てを明るみにするより、積み上げたものを解体することによって魅力を表現すべき作品なのではないか、と自説を問うた。しかし高畑は西村の分析は自分の企画には“あてはまらない”と答えている。これ以上の発言は書かれておらず、なぜ “あてはまらない”のかは語られていない。しかし、ここでは少なくとも単なる謎解きではないことは読み取れる。

 

鈴木敏夫のキャッチコピー

鈴木敏夫は「かぐや姫の物語」を売り出すためにチラシやポスターに「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーをつけた。高畑は「アニメーション、折にふれて」のあとがきにそのことを書いている。

 

チラシやポスターの「姫の犯した罪と罰」というセンセーショナルな惹句が私にはつらくて、それが原作『竹取物語』に根拠をもつものであることを明らかにしておきたかったのです。*2

 

書籍のあとがきにわざわざ書くぐらいだから、よほど気に入らなかったのだろう。しかもこの文章の続きに高畑の「罪と罰」のコンセプトを解説する文章をわざわざ付け加えるほどの念の入れようだ。

 

罪と罰」は原作の『竹取物語』に由来するものであるが、原作では謎のままであった。東映動画時代の企画案では、月の王(父王)がかぐや姫罪と罰について語るシーンが描かれていた。今回の企画書にもそのことが書かれており、先の西村とのやりとりもそのことについてである。当初の脚本にもそのシーンが書かれていただろうと想定される*3。しかし実際の完成版ではこの父王と姫の「罪と罰」のシーンはばっさりカットされた。高畑は巻末の一文でそのことを書いている。

 

しかし、私はこのシーンを冒頭につけることをしませんでした。『竹取物語』には描かれていない「かぐや姫のほんとうの物語」を探り当てさえすれば、プロローグなどなくていい。物語の基本の筋書きはまったく変えないまま、笑いも涙もある面白い映画に仕立てられる。そしてかぐや姫を、感情移入さえ可能な人物として、人の心に残すことができるはずだ。私はそんな大それた野心を抱いて、『かぐや姫の物語』に取りかかりました。*4

 

完成版では「罪と罰」のコンセプトをカットした(暗示にとどめた)のに、キャッチコピーには「姫の犯した罪と罰」とある。またこのキャッチコピーのために本編も少し直したそうだ*5。このキャッチコピーは「独り歩き」しだし、ネット上ではこの「罪と罰」が作品の主題であるかのように考察されているページも多々みられる。高畑が不満に思うのは自然だと思う。その後キャッチコピーは太田光の案にもとづいて「あゝ無常」と変更された。

 

 

その3に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:西村のブログ「悲惨日誌」スタジオポノック 公式ブログ - <悲惨日誌 第40回>【特別寄稿】サクティ「決して完成させることのできない作品」(後編)

*2:高畑勲「アニメーション、折にふれて」p370

*3:その証拠にノベライズ版「かぐや姫の物語」にもそのシーンがしっかり描かれている。

*4:高畑勲「アニメーション、折にふれて」p371

*5:ユリイカ2013年12月号p73