考察:片渕須直の「アリーテ姫」(その3)

(考察その2の続き)

 

中年の危機を背負ったアリーテ姫は、原作との距離を広げていく。

 

ここは原作には申し訳ないところなのだけれど、世界にはそうやすやすと主人公に微笑みかけてもらいたくなどない。ここは厳然と厳しい顔でい続けてほしかった。そういう意味では、原作から逸脱していこうとしているのは間違いない。
 いっそ『アリーテ姫』でもなく、『アレーテ姫』とか『アレイテ姫』でいいんじゃないかなあと考えてしまう。原作の邦訳「アリーテ姫の冒険」は、この時点よりもう8年くらいも前に出版された本だったし、新聞紙上などでもてはやされていた頃からもだいぶ経つ。原作のネームバリューに今さらおんぶするまでもなかったわけで。
 この当時はまだパソコンなんて持っていなくって、文字の仕事はシャープのワープロ「書院」でやっていた。そこに入っているシナリオの表紙に『アレーテ姫』と題名を打ち込んでみる。ちょっと字面を眺めて、すぐにやめ、『アレイテ姫』としてみる。次いで、脚本本文の「アリーテ」という文字も全部「アレイテ」に打ち変えてしまった。
 案外なことに、この仮題名は、誰からも何の反対も受けないまま、かなり長生きしてしまう。なので、しばらくそんな題名の映画だと思って仕事をしていた。*1

 

かくして「アリーテ姫」は「アレイテ姫」に置き換わる。

 

そして監督の中年の危機は「アリーテ姫」の制作にもハッキリ表れることになる。

 

 自分にとって劇場長編を作るということは、正当な漫画映画の復権を目指すことを意味した。前々から温めていた『アリーテ姫』にも、そうした匂いはふんだんにふくませようとしていた。魔法使いボックスがレオナルド・ダ・ヴィンチ的な(あるいは全日空の旧マーク的な)空飛ぶ乗り物でやってくるのは、物語中盤、アリーテ姫にそれを操縦させ、金色鷲と空中戦をさせようとしていたからだった。あまつさえ、マストが折れ、帆(というかローター)が使えなくなってからは、魔女の鍋状のそのゴンドラから着陸脚として大きなカエルの脚が生え、ピョンピョン跳ね回らせようとすら考えた。

 そうしたドタバタこそ自分の真骨頂だと思っていた。*2

 

片渕監督の作品をすべて観ているわけではないが、「魔女の宅急便」や「名探偵ホームズ」などはドタバタの良さがにじみ出ている。監督自身もそれを自分の真骨頂だと考えていた。ユニークなドタバタが盛り込まれた当初の「アリーテ姫」。完成版では結局そのようなドタバタはほとんど削られることになる。

 

 今回はドタバタには向かわない。それは、それこそ2歳7ヶ月で『わんぱく王子の大蛇退治』を観て以来、染みついてきたものだったが、それよりもここでは、なぜ自分が今あらためてこの映画を作らなければならないと考えたのか、その根本を思い返してみなければ、と思った。その切実な一点に絞って、ほかは捨てる。本質さえ自分自身の前で明らかになっているのなら、それを、例えば台詞劇として表現することも可能なのではないか。
 動かせてみせることなど、今の自分にふさわしくないと捨て、自分自身と、あるいは観客自身の心と地続きなものを作ることだけを考える。それができるならば、この映画を作り始める道も開けるだろう。*3

 

完成版では、ドタバタは捨て、シンプルな本質だけが残った。このときの変化は「マイマイ新子」や「この世界の片隅に」などその後の作品にまでつながっているように思う。

 

考察その4に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4