映画:君たちはどう生きるか(感想)

宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を先週観てきた。

宮崎駿の映像は嫌いではないが、観終わった後にうっすらとした喪失感が残った。自分の頭の中を整理するためにこの”うっすらとした喪失感”について書き残しておく。

 

この映画は吉野源三郎の同名小説からタイトルがつけられているが、内容は小説とは関係がない。ぼくはこの本を大学卒業後に読み、自分の生き方に少なからず影響を与えている(と思っている)。普段宮崎アニメに特別な期待をせずに観ていた自分だが、今回はこのタイトルのせいで作品に対する期待が高かった。もちろん広告を一切しないというマーケティングも期待値を高める効果があったように思う。

 

ストーリーは難解で一見して理解できないものの、監督の「自分語り」のような視点が全体を覆っており、「監督がどう生きたか」という空気で満たされていたように感じた。そしてなんとなくではあるが、この映画は、「教養」と呼ばれたものを葬り去っているような直感がした。

 

ぼくが原作の小説で一番印象に残っているところは、叔父さんが「学問」を小学生にもわかるように書いているところだ。

 

「本当に人類の役に立ち、万人から尊敬されるだけの発見というものは、どんなものかということだ。それは、ただ君がはじめて知ったというだけでなく、君がそれを知ったということが、同時に、人類がはじめてそれを知ったという意味をもつものでなくてはならないんだ。」

 

「僕たちは、できるだけの学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことが出来ないでいる問題のために、骨を折らなければうそだ。そのうえで何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことが出来る。また、そういう発見だけが、偉大な発見といわれることもできるんだ」

 

「偉大な発見をしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。」*1

 

映画に登場する大叔父は、小説にでてくる叔父さんとは全くの別人なのは言うまでもない。大叔父は「本を読みすぎて、頭がおかしくなった人」であり、「死んだ過去の世界に生きている人」であり、それでもなんとかバランスをとりながら、「次世代に引き継ごうとする人」であった。そして現実を生きようとする主人公が決別する相手であった。

 

ぼくには大叔父と叔父さんは別人なのは百も承知の上で、なお、この映画からは”人類の役に立ちたいなら学問の頂上にのぼり切れ”という叔父さんの声を、「学問は現実には役に立たない」と切り捨てられたように感じた。それは本の山に埋もれて、世界を維持しようとする大叔父の姿と、それと決別する主人公からそれを感じたのかもしれない。映画全体を覆っている空気からかもしれない。先人たちが破滅の中から育ててきたものの承継を拒否したように見えた。叔父さんの「学問」というキーワードを「教養」や「戦後民主主義」などに置き換えてもいいかもしれない。それらは確かに不確実で、有事が多発する現実の世界では特効薬として役に立たないように見える。しかし特効薬ではなく漢方薬のようにじわじわ体質を変える力はまだまだあるはずだ。

 

何かを期待しに観に行ったら、ただただ現実を見せつけられた。そんな気がした。唯一救いがあるとすれば主人公は「君たちがどう生きるかを」鞄にいれ、現実を歩もうとしている部分だけかもしれない。

 

多分に思い込みや妄想が含まれた感想だが、観終わったあとのうっすらとした喪失感の中身はそんな感じです。

*1:岩波文庫、p94~95