旅行:広島(その1)

 

1泊2日で広島へ行ってきた。十数年前に一度行ったのだけど、悲しいことに内容をほとんど覚えていない。改めて戦争や原爆について知りたいと思い、広島を訪れた。新幹線を使うと広島駅には9時半すぎには到着した。思っていたよりもぐっと近い。

 

広電に乗って原爆ドーム前に行くと、自分と同じようなソロ観光客がチラホラ歩いている。平日にもかかわらず人が多く、3~5人の学生の集まりや、外国人、修学旅行生など、さまざまで、なんとなく女性や若い方が多い気がした。原爆ドーム周辺には平和公園、国立原爆死没者平和祈念館、平和記念資料館、そして最近改修されたレストハウス本川小学校がありそれらを巡った。

 

平和記念資料館では当時の被害の様子が、いやというほど展示されていた。広島という都市の被害からはじまり建物、物、人、家族、みなし子、病気、世代を超えた被害などなど。なかでも当時を体験した市民が晩年に描いた絵が衝撃的だった。親が我が子を見捨てた当時を思いだして描いた絵で、悔やんでも悔やみきれず今なお後悔していることがその絵からひしひしと伝わってきた。

 

ウクライナ戦争の報道をみると日本の防衛力強化や軍事同盟強化という言葉が飛び交う。戦争や平和をどこか政治的な問題、戦略的な問題のように無意識にとらえてしまっている自分がいる。また戦争の被害者や犠牲者という言葉を文字通りの言葉、単なる単語としてとらえてしまい、その先の想像力がほとんど働いていない。平和記念資料館を訪れ、そこには何の罪もない“大勢の犠牲者“がいるという当たり前のことを生理的な感覚として受け止めることができた。

 

少し残念なことは、戦争そのものに対する展示や解説が少なかったことだ。原爆という悲劇がクローズアップされることはとても大きな意味がある。原爆の展示が大半をしめるなか、日本が行った戦争が何だったのかがほとんど触れられていない。その説明がないと、なぜ「原爆を落とされたか」に至る経緯がまったくわからない。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉があいまいなように、戦争にたいする認識もあいまいだと感じた。

 

ロシアのウクライナへの侵略はかつて日本が行った満州事変と似ている。アメリカに核を落とされた日本が、今度はアメリカの核の傘に入り積極的に軍事的協力を進めようとしている。かつてアジア・太平洋を侵略し、また原爆で大きな被害を受けた日本だからこその役割があるのではないかと思う。

旅行:鳥羽と上高地

上高地

6歳を連れてのハイキング。1日目は河童橋を起点に梓川右岸ルートで明神池を目指し、左岸で戻るルート。2日目は河童橋を起点に大正池を目指すルート。どちらも登りはほとんどないので余裕だと思っていたら、明神池の途中で子供がぐずりだす。ルートが思っていたより長く、飽きてしまったようだ。体力はたくさんあるが集中力は3キロぐらいが限界っぽい。

 

鳥羽水族館

鳥羽水族館は今までの見てきた水族館の中で一番インパクトのある展示だった。

変な生き物研究所のダイオウグソクムシをはじめ、オウムガイ、巨大なアンモナイトの化石、セイウチのショー、アマゾンやアフリカの生物、、などなど。世界はまだまだ広いなと思った。滞在時間3時間では時間が足りない。

 

・旅行行程(メモ)

9/1

7:30 和歌山発

(高速のSAで昼食)

12:30 鳥羽水族館

合計4H(その後鳥羽から鈴鹿に移動し宿泊)

ナビの指示ではなく、グーグルマップの指示を使う(西名阪、名阪国道利用)

時間はグーグルマップが正確(これに休憩を足すとほぼジャスト)

 

9/2

7:10 鈴鹿

10:50 あかんだな駐車場着

合計3H40M

ナビと同様のルートだが、グーグルマップの時間が正確

原因は飛騨ICを降りてからの国道の時間。グーグルマップは実際の速度。

結果ナビの当初計算時間より1Hぐらい短くなり、グーグルの計算時間に近づく。

(休憩2回計15分ほど。食事はとらず。)

11:20 あかんだなバス乗車

11:50 上高地

お昼休憩、ロッジに荷物を預ける

13:20 明神池へ出発

河童橋スタート。山手川から出発し帰りは梓川経由で河童橋へ戻るルート。)

16:30 河童橋着(明神池でトイレ、明神館でアイス食べる)

ヤマレコのコースタイムは2H、実際は2H50M

*服装は長袖シャツにシャツやパタゴニアのフーディを羽織る程度で良かった。もしもと思って詰め込んだフリースも使わなかった。

 

9/3

9:45 河童橋発(河童橋スタート。梓川ルートで田代池を通り大正池バス停へ)

11:30 大正池バス停着

ヤマレコのコースタイムは1H、実際は1H45M

映画:「かぐや姫の物語」(考察その1)

 

・高畑監督は何を考えて「かぐや姫の物語」を作ったのか

かぐや姫の物語」は受け手によって様々な解釈がされている。ジェンダー、死生観などが典型だろうか。なんとなくつかみどころがなく、底なし沼のように深い(ように私は感じる)この不思議な作品を、企画書やインタビューなどを手掛かりに、監督サイドの視点を知りたいと思った。

 

・「かぐや姫の物語」の制作を決意するにいたる過程

高畑は製作前にそれを“自分が作るに値するか”をとことん考え抜くそうだ。そのことをプロデューサーである西村氏が語っている。

 

『高畑さんはその逆(宮崎駿の逆)、企画があるとしたらそれが作るに値するものかどうか、一度はとことん否定的にも考える方なんですよ。否定し続けてなにかが残ったときに「あっ、これはこういうところがあれば映画になるかもしれない」と考える。』*1

 

その過程は壮絶で、高畑が監督を引き受けるまで、1日12時間、1年半で5000時間を費やしたという。*2*3まだ作るという決意をする前の段階でこれほどの時間を費やしたのは、「なぜ現代に竹取物語作る必要があるか」ということをとことん問い続けた結果なのだという。

 

・「かぐや姫の物語」の狙い

かぐや姫の物語の企画書は、「パンフレット」や「ビジュアルガイド」などで読むことができる。その企画書冒頭に「かぐや姫の物語」の狙いをこう書いている。

 

『それをひと言でいうなら、「竹取物語」の「本質」とされるものを積極的に裏切って、かぐや姫の側から物語に光をあて、そこに隠されているはずの、動感も現代性もある生き生きとした挿話を掘り起こすことによって、かぐや姫に感情移入できるアニメーション映画をつくりたい、ということである。』*4

 

この文章からは、かぐや姫を主人公にした現代性のあるアニメにしたいことが伝わってくる。しかし竹取物語の”本質”とは何か、それを”裏切る”とはどういう事なのか、企画書にはハッキリと書かれていないため、全く意味がわからない。

 

・高畑の「竹取物語」解釈

高畑は企画書とは別に『「竹取物語」とは何か』というテキストを書いている。これは「ビジュアルガイド」や「アニメーション折にふれて」におさめられている。この内容をひと言でいうと古典である「竹取物語」を高畑流に解釈したものである。ここには企画書にでてきた”竹取物語の本質”や”隠されているはずの挿話”についても書かれている。

 

高畑が考えた”竹取物語の本質”は、「竹取物語」を参照して書かれたであろう「今昔物語」の説話にあるとしている。高畑は「今昔物語」の説話をとりあげながら「竹取物語」の本筋と本質を次のように書いている。

 

本筋とは、「人の心を捉えずにはおかない絶世の美女がこの世に一時滞在し、その美しさで人々をさまざまに翻弄したあげく、結局超然としたまま月へ帰ってしまう」という不思議な出来事の紹介である。*5

本質とは、「人間はこの世ならぬ美しさを見れば、手にいれたいと強く望むが、この世ならぬが故に所詮それはかなわぬことであり、ただはかない憧れを残すのみだ」という概観である。*6

 

「今昔物語」の説話は姫の心理描写を積極的にそぎ落とし、主人公に感情移入させようとさせず、姫の心を推し量ることの不可能性を浮き彫りにしている。

 

かぐや姫は何のためにこの地上にやってきたのか、そして何故月に帰らねばならなかったのか、そんなことは分からなくて当然なのだ、いやむしろ分からないことこそがかぐや姫物語の本質なのだ、ということを「今昔物語」の説話、見事に、すっきり教えてくれた。*7

 

高畑は「今昔物語」の説話が、オリジナルの「竹取物語」に近いものだと仮定し、現存する「竹取物語」(この映画のベースになっている「竹取物語」のこと)はそのオリジナルである「<原>竹取物語*8から出発したものだと推定している。

 

現存する「竹取物語」は「<原>竹取物語」と異なり、”何を考えているのかがわからないかぐや姫”という”本質”を積極的に裏切り、かぐや姫の”心”を描こうとした。かぐや姫に人間としての血を通わせ、この不思議な姫の心の心中を知りたい読者の要求に応えようとした。しかしそこには、何のために地上へやってきかた、何を考えて生きていたか、何をしたかったか、何故月へ帰ることになったのかなど、数々の疑問がわきあがるが、その肝心のところが明らかになっていない。その不可解さが「竹取物語」の永遠の魅力の源泉となっている。要約するとこれが高畑流の「竹取物語」の解釈である。

 

・もう一度企画書に戻る

ここまでを頭にいれて、先ほどの企画書冒頭に戻ると、ようやくその意味がわかる。もう一度先ほどの冒頭部分を引用する。

 

それをひと言でいうなら、「竹取物語」の「本質」とされるものを積極的に裏切って、かぐや姫の側から物語に光をあて、そこに隠されているはずの、動感も現代性もある生き生きとした挿話を掘り起こすことによって、かぐや姫に感情移入できるアニメーション映画をつくりたい、ということである。

 

つまり、高畑は”姫の心は理解できなくて当然”という「竹取物語」の本質を積極的に裏切り、姫の側からの物語に光を当てる。「竹取物語」では描かれなかった姫の物語を掘り起こすことで、姫に感情移入ができ、かつ現代性のあるアニメをつくりたい。これが企画の意図となる。

 

高畑は基本的に原作をリスペクトをし、その内容を大きく作りかえるようなことはしない。しかし「かぐや姫の物語」だけは別で、原作を換骨奪胎したと語っている*9。高畑が残した企画書を整理して読み解くと、その換骨奪胎の意味がよくわかる。”本質”とされる”理解できない姫”を積極的に描き、”永遠の魅力の源泉”である疑問点の数々(何のために地上へやってきかた、何を考えて生きていたか、何をしたかったか、何故月へ帰ることになったのか)に解をあたえ、古典を現代劇に作り替えたのである*10

 

そして高畑の恐ろしいところは、その”換骨脱退”を本来の「竹取物語」の筋を大きく変えずにそれらをやってのけているところにある。

 

考察その2に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

 

*1:ユリイカ2013年12月号p107

*2:ユリイカ2013年12月号p107

*3:西村のブログ「悲惨日誌」スタジオポノック 公式ブログ - <悲惨日誌 第1回> 悲惨な日々?

*4:かぐや姫の物語 ビジュアルガイドp104、なおこの部分はパンフレット記載の企画書からは省略されている。

*5:アニメーション、折りにふれて、p310

*6:アニメーション、折りにふれて、p310

*7:アニメーション、折りにふれて、p312

*8:「<原>竹取物語」はあっただろうと考えられているが、現存していないので、その内容は不明である。

*9:『幻の「長くつ下のピッピ」』p144,高畑勲宮崎駿、小田部洋一

*10:実際にメイキングDVDの中で「古典というよりは現代劇のつもりだ」と監督本人が語っている。

読書:加藤陽子「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」

本書は中高生に行った講義をベースにしている。中高生向けの講義だから、とっつきやすいだろうと思い手に取ってみたが、なかなか難しい。中高生向けでも、歴史の苦手な子を対象にしているのではなく、歴史の好きな中高生向けの内容で、ついていけない授業を受けているような気分でした。

 

本書の読みどころは、などさまざまな角度から歴史という「学問」の魅力を読者に伝えているところだと思う。

 

暗記科目的なイメージの歴史を、「なぜそれが起こったのか」、「なぜ防げなかったのか」という様々な「問い」にフォーカスしている。過去の歴史家が実際の「問い」にどう取り組み、どのような「解」を提示したのかを時代情勢と共に検討している。またそれら個別の特殊事例の歴史から普遍性をもった歴史法則はないか、という視点にふれることによって、暗記科目ではなく「学問」としての歴史の魅力を伝えている。

 

なかでもルソーからの引用は、ウクライナ戦争が起こっているタイミングということもあり非常に興味深かった*1

 

「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、というかたちをとる」*2

 

この引用が意味することは、戦争の最終的な目的は相手国の占領や、相手国の兵を自らの軍に編入するという次元の問題ではなく、相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいる)に変容を迫るものだということだそうだ。

 

ウクライナ戦争にあてはめると、プーチンは首都キエフの占領だけではなく、ゼレンスキー政権の退場を求めている。これはウクライナの基本秩序に対する攻撃といえるかもしれない。もう少し広い視点でとらえると民主主義か独裁主義かの世界秩序をめぐる戦いともいえる。社会の基本秩序への攻撃というルソーの戦争観は今なお普遍性を持っているように思える。これが世界大戦前の18世紀に書かれたというのだから驚くしかない。

 

その他にパリ講和会議へ参加した際のケインズの話が興味深かった。経済学者で知られる、ケインズパリ講和会議に参加し、アメリカのドイツに対する賠償要求に痛烈な批判を加え、ベルサイユ講和条約の調印を待たずに、帰国したという逸話を紹介している(のちに「講和の経済的帰結」として出版された)。パリ講和会議という歴史的瞬間とケインズが学問の垣根を越えて自分の中で結びつき、とても刺激的だった*3

 

本書の続編っぽい本もあったので、また機会があれば読んでみたい。

 

 

 

*1:このようなタイミングでこの本と出会ったことに読書の面白さを感じる。

*2:「戦争及び戦争状態論」

*3:もちろん大恐慌以後ケインズは大活躍するが、経済学のテーマとして語られる話だ。

マルクスは税をどう考えたか?

税理士なので税に関しては人並み以上に関心をもっている。なので「資本論」を読むときも何か税に関する宝物が落ちていないか、ついつい気にしてしまう。不破哲三の「『資本論』全三部を読む」を読みなおして、税について気づいたことを書き残しておきたい。

 

アダムスミスは「国富論」でスミスなりの租税原理を書いているし、リカードも「経済学と課税の原理」を書いている。しかしマルクスには租税について体系的に書き残したものはない。マルクスにも国家、財政や租税を論じるプラン*1はあったが、それらを体系的に論じる前に亡くなってしまった。そのため国家観や財政観の位置づけなどのプラン問題は多くの論争対象となっている。

 

体系的に租税を論じていないとはいえ、断片的に租税の問題が登場するので、「マルクスは税金についてどのように考えていたのか?」という欠けたピースは個人的に非常に興味がある。またマルクスは書きながら自身の考えをアップデートしていたことで知られている。とくに剰余価値というマイルストーン発見後の認識はより興味深い。

 

ではマルクスは税の本質をどう見ていたか。そのことは非常にハッキリしている。たとえば、資本論では次のように書いている。

 

この剰余価値が、一方ではさまざまな細区分形態――資本利子、地代、租税など――に分裂すること、また他方では、、、*2

 

税はマルクスの理論から言えば剰余価値の一つの分裂した形態だ。資本利子、地代、労賃が剰余価値から生まれたものであるように、そこに税も並んでいる。

 

それはマルクスの価値論からすると当然の話で、そこまではストンと私の頭にも入ってくる。しかし税が剰余価値の分裂した形態であるなら、結論からすれば直接税でも間接税でも、元をさかのぼれば同じ“税源”である剰余価値にたどり着く。

 

私のなかで長い間疑問だったことは、“税源”が剰余価値なのに、なぜ、マルクスは事あるごとに「間接税より直接税」を支持したのかということだ。

 

この問いは、そのまま現代にも通じると思う。野党は「消費税を5%に減税し、法人税引き上げろ」は消費税でも法人税でも“税源”が同じならどっちでもいいのでは?という極論に行き着く。また消費税の価格転嫁問題にもかかわるテーマだ。

 

不破講義を読みなおして、この疑問のヒントになると思ったのが、次の箇所だ。少し長いが引用する。

 

生産力が高められた結果、労働力の価値が下がった場合(この例では四シリングから三シリングに低下)、現実に売買される労働力の価格(労賃)がそれだけ低下するか、という問題をとりあげて、マルクスは言います。

 

「労働力の価値が・・・・低下しても」、「労働力の価格」はある程度しか「低下せず」、それゆえ「剰余価値」は、中間の値にしか「上昇しない」ということがありうる。「三シリングを最小限度とする低下の程度は、一方の側から資本の圧力が、他方の側から労働者の抵抗が、天秤皿に投げ入れる相対的重量に依存している」*3

 

労働日のときにも、その長さは力関係で決まる、という叙述(「同等な権利と権利とのあいだでは強力がことを決する」*4がありました。賃金の問題でも、一定の範囲内での話ではありますが、マルクスは、力関係と闘争で決まる、という指摘をしています。労働条件の問題で、不動の“鉄則”があるわけではないということの一例といえるでしょう。*5

 

マルクスが、「資本主義的蓄積の一般的法則」として提起したのは、抵抗は無駄だという無抵抗主義を理論づけるような、そんな宿命論的な議論ではありません。剰余価値の増大をなによりの推進的動機とする資本主義的生産が、労働時間の面、労働の強化の面など、あらゆる面で搾取の強化を追求する必然性をもっていることを、マルクスは絶対的及び相対的剰余価値をめぐる考察のなかで、明らかにしました。しかし、そのさい、マルクスが労働時間についても、労賃についても、実際の内容は力関係と闘争によって決まる、との指摘を忘れなかったことは、見てきたとおりです。

(~途中略~)

「貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取の総量は増大するが、しかしまた、絶えず膨張するところの、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合される労働者階級の反抗もまた増大する」*6

 

この文章の前半は、明らかに「資本主義的蓄積の一般法則」での貧困化の指摘をうけたものですが、ここでは、資本主義の側に内在する貧困化への傾向の必然性と同時に、労働者階級の側の訓練・結合・組織・反抗への傾斜の必然性が、明記されているのが、重要な点です。マルクスが、このように、貧困化の法則などの宿命的な理解を受け付けず、階級闘争の論理をつらぬいていたことを、しっかりと理解することは、「資本主義的蓄積の一般的法則」を理解するうえで、大事な眼目になります。*7

 

これらは税の話ではなく労働の価値と価格の関係について、賃金とその闘争についてのトピックである。マルクスは実際の賃金の増減は、資本家と労働者との力関係(*もちろん力関係だけで決まるわけではなく、一定の制約はある)で決まるということを言っている。*8

 

不破講義を読んでいて、このことを税の問題に解釈を広げても、そんなに離れた話ではないように思った。要するに賃金は資本の利益との剰余価値の配分をめぐる闘争であり、税についても広い意味では同じだろうと思った。実際にマルクス資本論で下記のように述べている。

 

「・・・租税の廃止は、産業資本家が労働者から直接くみ出す剰余価値の分量を、絶対に変化させるものではない。それが変化させるのは彼が剰余価値を自分自身のポケットに入れる比率、または第三者と分配しなければならない比率だけである。したがって、租税の廃止は、労働力の価値と剰余価値との関係をなんら変化させない。」*9

 

上記引用箇所は、剰余価値の増減に対する本文への注釈である。剰余価値そのものの絶対値は税に左右されるものではなく、税によって剰余価値の配分比率が変わることを言っている。この文章では剰余価値の増減がテーマであり、税については残念ながら本題ではないため詳細には語られていない。このテーマの続きを税の観点から少し詳細に書いたものが、資本論執筆時に書かれた『中央評議会代議員への指示』にある。

 

(イ)課税の形態をどんなに変えても、労働と資本の関係にいくぶんでも重要な変化をもたらすことはできない。

 

(ロ)にもかかわらず、二つの課税制度のうち一つを選ぶべきだとすれば、われわれは間接税を全廃して、全般的に直接税とおきかえることを勧告する。その理由は次のとおりである。直接税のほうが徴収に費用がかからず、また生産を妨害しないこと。間接税の場合には、商人が間接税の額だけでなく、間接税の支払いのために前払いした資本にたいする利子と利潤までも商品価格につけくわえるので、商品価格が高くなること。間接税では、個人が国家に支払う額がどれだけかということは、その個人に隠されているのに、直接税はあからさまで、ごまかしがなく、どんな頭のわるい人間にも誤解のおこりようがないこと。だから、直接税は各人を刺激して、統治者を監督しようという気持ちにさせるが、間接税は自治への志向をいっさいおしつぶす。*10

 

要するに、マルクスは、税の徴収方法の違いによる差は「労働と資本の関係」という資本主義社会の基本的な性格にはほとんど影響を与えないが*11、それでも「間接税」を選ぶのは、その違いにより、直接税では「統治者を監督しようという気持ちにさせる」が間接税では「自治への志向をいっさいおしつぶす」からだと書いている。徴収方法の違いで、その剰余価値の配分闘争に影響が出ることを重視していたのだと読める。それゆえ「間接税」より「直接税」を支持したのだ。

 

マルクスがここで言っている「直接税」は企業に対する「直接税」なのか個人に対する「直接税」なのか、また「間接税」についても、広く徴収される消費税のようなものをイメージしてよいのか当時の状況も調べておく必要がありそうだ。しかし上記引用で「直接税」は“生産を妨害しない”、“徴収費用が少ない”という記述から、生産者に課される「法人税」的な税をイメージしても間違っていないように思う。「間接税」についても“利子や利潤が商品価格につけくわえる”、“商品価格が高くなる”という記述から「消費税」的な税をイメージしても間違っていないように思う。

 

ここで話を現代に戻してみたい。野党がいう「消費税を5%に減税し、法人税引き上げろ」という話が実現した場合、はたして市民の生活は安泰なのだろうか。さまざまな中間項を捨象した、かなりの飛躍になるが上記のマルクス的視点から検討してみたい。

 

消費税が下がって、法人税が上がった場合に、当然に資本家は上がった法人税分の利益を確保しようと、その法人税の増加分を価格に転嫁しようとするだろう*12。その方法は最終消費者の価格を上げる、中間の業者から仕入れる値段を削るなど様々だ。実際にトヨタはコロナでの業績悪化を見越して、部品メーカーに値下げ要請をしたのは記憶に新しい。

 

www.nikkei.com

 

産業の上流にいるメーカーは下請けに対して強い。トヨタのこの事例は「下請けたたき」として、ネットで大いにバッシングされた。

 

ここでトヨタの「下請けたたき」の原因である「コロナによる減収」を「法人税増税による減収」に置き換えた場合、どうなるだろうか。法人税が上がったので、トヨタの利益確保のため、下請け部品メーカーにさらなる値下げの依頼があったとする。もっと極端な話におきかえると、法人税が5%上がったので、商品の販売価格も5%上げるという例にしてもよいかもしれない。つまり消費税が5%下がったけど、価格が5%値上がりし、結果価格は何も変化しない。これらは理屈の上ではなりたつかもしれない。しかし社会がこれを許すだろうか。

 

法人税は儲けた利益に対して課税される。もちろんその負担増加分を企業が価格へ転嫁することは市場経済の中では合法である。しかし市民感覚として脱法である。「原油価格の高騰により販売価格を見直します」は許容できても「法人税の増加により販売価格を見直します」は社会が許容しないだろう。

 

この「社会が許さない」という感覚を上記マルクスの言葉にあてはめると、トヨタの儲けに対する相当の税負担は、「(直接税は)あからさまで、ごまかしがなく、どんな頭のわるい人間にも誤解のおこりようがないこと」であり、「直接税では統治者を監督しようという気持ちにさせる」ということなのかもしれない。

 

*ここでは徴収方法の違いについて書いたが、税の使い方も重要だ。仮にすべての「間接税」が「直接税」になり「累進が強化」されても、それらの税が「資本の強化」のためにもっぱら使われるのであれば、労働者にとってメリットはない。

 

*1:経済学批判序説

*2:新日本出版新版資本論8巻p84、資本論第3部p59

*3:新日本出版新版資本論3巻p908、資本論1部p545

*4:新日本出版新版資本論2巻p405,資本論1部p249

*5:不破哲三資本論全三部を読む第3冊」,p89

*6:新日本出新版資本論4巻p1332、資本論1部p791

*7:不破哲三資本論全三部を読む第3冊」,p181

*8:「賃金・価格・利潤」では、ウエストンの労働組合による賃上げ闘争は無駄という見解に対し、マルクスは同様の主張をより具体的に示している。

*9:新日本出版新版資本論3巻p907、資本論1部p544

*10:大月書店「マルクスエンゲルス全集16巻」p197

*11:ここではおそらく「租税の改革で社会主義革命が起こることはない」ということを言いたいのだと思う

*12:「賃金・価格・利潤」のウェストン氏の提言と似た構造の話になる。ウェストン氏は賃上げ闘争をしても、その分商品の価格が上がるから無駄だと主張した。

読書:不破哲三「『資本論』全三部を読む」(感想その2)

前回に引き続き不破哲三「『資本論』全三部を読む」の感想です。

 

資本論』は“経済学的な結論”だけをとりだして読めば、ある意味ではとてもシンプルな本かもしれない。不破講義を読み直して感じた『資本論』の魅力は、“経済学的な結論”にあるのではなく、そこに至るマルクスの考察、歴史分析、試行錯誤だと思った。その思考過程は今なお宝の山である。

 

通常の解説本はマルクスの要点を整理しすぎてしまい、この“宝の山”を綺麗に消し去ってしまったり、一部分をクローズアップしすぎて、マルクスが『資本論』全体を通して何を明らかにしようとしたかが見えなくなってしまったりしてしまうものが多い。そもそも全三部を訳本に準じながら講義するというスタイルの本はあまりない*1

 

不破講義が強調していることは「マルクスマルクス自身の歴史のなかで読む」ことだ。『資本論』が“完成された著作”ではなく、“未完成の著作”として、それらの草稿が書かれた時期やマルクスの問題意識、エンゲルスの編集上の問題点などを明らかにしながら全三部にわたり講義を進めている。不破講義も『資本論』の要約なので他の本と同じく、何かしらの”寄り道”であったり”宝の山”をそぎ落としいる。それでも一番美味しい“宝の山” であるマルクスの思考過程をメインディッシュにすえている点で評価できる。

 

マルクスの著作を読むと、そこから様々なテーゼを引き出し、一般化し、現在に当てはめたくなる。とくに「史的唯物論」に関しては「経済学批判の序言」でのテーゼの存在が大きすぎて、歴史を学ぶうえで、つい「史的唯物論的にはこうだ」という形にはめてしまいたくなってしまう。

 

不破講義では史的唯物論の“マルクスの使い方”をこう解説している。

 

史的唯物論の問題は、『資本論』全体がその体現だと呼んでもよいぐらい、ここでは、史的唯物論と経済学とが一体になった形で、研究が展開されていますし、社会やその歴史にたいする史的唯物論の見方そのものも、たいへん豊かな定式化が各所にあります。私たちが、その社会観や歴史観の『資本論』での定式化から深く学びとるべきことの一つは、そこには、教科書的な図式主義がかけらも見られない、という点にあると思います。

 

(~途中略~)

 

テーゼを一般論として説明*2しながら、それをもって終わりにせず、現実の世界では「無数の異なる経験的事情」によって変化するのであり、それは、その諸事情を具体的に分析することではじめて把握できるのだ、という補足説明を行っている。この態度は、マルクス自身、いろいろな国ぐにの歴史や情勢を研究するさいに、いつもつらぬいたことでした。


(~途中略~)

 

マルクスは社会を研究する指針として、史的唯物論を持っているのですが、それを型紙としてスペイン革命を論じるなどということは絶対にしないのです。スペインの歴史そのものの徹底した研究のなかから、スペイン社会ならではの「発展の秘密」をつかみだして、それによって、現在進行形の革命の動きを論じる――マルクスにとっては、史的唯物論とは、こういうやりかたによってこそ、威力を発揮するものでした。*3

 

史的唯物論は「生産力至上主義」や「進歩史観」と呼ばれ、"経済至上主義的テーゼ"のように解釈されることもある。私自身も、ついついそういう思考に陥ってしまう。

 

発明者であるマルクスは、史的唯物論というツールを使うとき、歴史そのものを徹底的に研究し、型にはめて論じたりはしなかった。

 

ちなみに資本論では、史的唯物論のテーゼを一般論として説明したのちにこう書いている。

 

このことは、同一の経済的土台――主要な諸条件から見て同一の――でも、無数の異なる経験的事情、すなわち自然諸条件、種族諸関係、外部から作用する歴史的諸影響などによって、現象においては、無限の変化およびニュアンスを示しうるということをさまたげるものではなく、こうした変化およびニュアンスは経験的に与えられたそれらの諸事情の分析によってのみ把握されうるのである。*4

 

この箇所は原文も含めて、おりにふれて立ち返りたいなと思うポイントである。

 

 

 

 

 

*1:

読書録:不破哲三「『資本論』全三部を読む」 感想その1 - Standard Office

*2:資本論第三部p799-800、新日本出版社、新版資本論11、p1412-1413

*3:不破哲三、『資本論』全三部を読む第7冊、p213ー215

*4:資本論第三部p799-800、新日本出版社、新版資本論11、p1412-1413

読書:不破哲三「『資本論』全三部を読む」(感想その1)

年末に、不破哲三の「『資本論』全三部を読む(旧版)」を読み始め、先日最終巻を読み終えた。忘れないうちに感想をまとめておきたいと思う。

 

なぜ不破の「『資本論』全三部を読む」を読み始めたのかというと、斎藤幸平の「人新世の資本論」を読んでいた時に、きちんと全三部を再読したいなと思ったからだ。もともと資本論を読み通したのは5年頃前*1で、今では細かなディテールもぼやけ、逆に印象に残っている部分だけが強くイメージとして残っている。とくに第三部の三位一体の話(利子、地代、労賃の源泉)と第二、三部のエンゲルスの編集に至らない点があったという点が大きく印象に残りすぎて、他の部分がだいぶ頭から抜け落ちてしまっている。そもそも最初に「資本論」を読もうと思ったのも、一生に一度は読んでおきたいと思ったからで、「わからなくても全三部を読み通す」ことに意義を感じ、わからないままに読んでいた箇所も多かった。改めて資本論に挑戦するにあたり、この二部、三部のモヤモヤを少しクリアにしたいと思ったのも理由のひとつである。

 

ちなみにその当時は第一部を中山元訳の資本論を用いた。新日本出版社訳も手元にはあったが、言葉が固すぎて、文字が頭に入るまでとても時間がかかった。新日本出版訳での読み方は同じ文を3、4回読み直して次に進むといったぐあいで、普通の本のように文字を追えば頭に入るという感覚が全くない。これでは読み通すまでに膨大な時間がかかると思った。その点中山訳は比較的新しい訳のためか、堅苦しい言葉ではなく、普通にスラスラ読める日本語になっている*2。二部、三部は中山訳がないので大月書店のデカいやつを選んだ。大月書店訳は文章の表現が新日本出版訳より若干柔らかく感じたからなのと、装丁が重厚でカッコよかったからだ。

 

前置きが長くなってしまったが、当時「資本論」を読んだときに「講師」として手元に置いていたのが不破の「『資本論』全三部を読む」だった。「資本論」はマルクスの叙述に一癖も二癖もある本なので(それが魅力でもある)、その章でマルクスが言いたかったことをきちんと整理する必要がある。その最良の講師が不破だった。

 

今回は斎藤の「人新世の資本論」を読んで「資本論」を再読したいと思ったが、部分的に読むのはなんとかなるにしても、全三部の通読は時間的なハードルが高いので、不破本7冊の超訳で復習することにした。

 

「不破読み」の特徴は、縦横無人に全三部を語っているが、何故不破がそう考えたのかという思考プロセスをある程度たどることができる点で優れている。それぞれエビデンスを示し、過去の解釈や論争、定説ではない不破流の読み方、まだ研究途上にある問題など明確に区別して書いている。また「マルクスマルクスの歴史の中で読む」ことに注目しており、何故その時マルクスがそう考えたのかという考察も多岐にわたる。こうして書いてみると、堅苦しそうな本に思えるが、セミナーの講義録なので口語調でビックリするほど読みやすい。

 

また資本論全三部を対象にし、全三部の叙述に準じて解説するという本は、実はほとんど無い。よくある「資本論入門」的な本では第一部が主な解説対象であり、二部、三部は対象外とするものも多い。例えば佐々木隆治の「マルクス資本論」(角川選書シリーズ世界の思想)も資本論解説書だが、その範囲は第一部に限られている。伊藤誠の「『資本論』を読む」(講談社学術文庫)は全三部を網羅しているが、経済学的な見方に重きを置きすぎており、資本論の世界を狭めているように思えた。要するに資本論に準拠して全三部を解説するというのはありそうであまりないのである。

 

本題の不破本感想を書く前に話がだらだらと長くなってしまった。感想は次の機会に書きたいと思う。

 

 

 

*1:2016年秋~2017年春

*2:「大洪水よ、わが亡き後に来たれ!」が中山訳では「あとは野となれ山となれ」になっていたのは残念。