消費税について(附加価値税、転嫁)

先日とある団体の会員向けにインボイス勉強会の講師をつとめた。

会員のほとんどが高齢の方々だったので、難しい言葉は避け、できるだけ普段の言葉で説明するように心がけた。また免税業者が多いため、まず消費税制度の基本から説明し、その後にインボイス制度の概要を説明した。自分自身講師としての経験はそれほど豊富ではないので不安だったが、勉強会が終わり、わかりやすかったという声をたくさんいただき、とりあえず安心した。

 

・消費税は『預り金』なのか?

 

資料を作るにあたって、改めて消費税について考えていた。

とくに消費税と『預り金』の関係についてどのように表現するか悩んでいた。

先日ホリエモンインボイスの反対署名に対して「これまで消費税を『着服』してたくせによー言うわ。ちゃんと払えや」*1というニュースが拡散していた。このような典型的な免税業者バッシングに対する自分なりのアンサーを用意しておきたいと思ったからでもある。

 

消費税は法律上*2は『預り金』ではないことは疑う余地がなく、判決もそれを裏付けているし、国会でも『預り金』ではないと答弁されている。消費税は『預り金』ではないから『益税』は生じない。法律上も消費税は商品価格の一部を構成しているにすぎない。だからホリエモンに『着服』なんて言われる筋合いはない。法律というものを軸に反論するならこれでよいかもしれない。

 

とはいえ、間接的に消費者が負担しているのもまた事実ではある。そのために価格への転嫁に関する対策も一応はなされている。事業者の負担は『仕入税額控除』という税の累積を排除する仕組みを通じて『事業者の負担』が生じないように設計されている。タテマエとしてはやはり消費者が対価に上乗せして消費税を支払って事業者を通じて国に納められる間接税である。

 

要するに消費税は法律上の『預り金』ではないが、経済的な実態は『預り金的性格』を有するものということになる。価格競争力に劣り、消費税を価格に転嫁できない業者は『着服ではない』と考えるし、一般消費者やサラリーマンからみたら自分たちが払っている消費税がきちんと納税されておらず、『着服』に見える。お互いの視点の違いがインボイス制度の導入にあたり分断を生んでいる。

 

そしてこの『預り金的性格』はインボイス制度が導入されることにより、より強固かつ決定的なものとなる。レシートや請求書に消費税率と消費税額が明記されることで、インボイスの登録番号がついている業者だけが消費税を『預かった』ということができる。つまり『預かった』、『預かっていない』という論争はインボイス制度により終結する。そして今までのように免税業者が税込みと称して消費税を受け取ることは現実として厳しいものとなる*3。結果として免税業者が『着服』といわれることもなくなるだろう。

 

ただしインボイスの導入によって変わるのは『仕入税額控除』の書類の保存要件が変わるだけにすぎない。インボイス導入後も消費税の法的性格が決して『預り金』に変わるわけではない。消費税額の『見える化』により『預り金的性格』がより強固になるのである。

 

・消費税の学問的な分類『附加価値税』

 

この『預り金』、『預り金的性格』というものをもう少し視野を広げて考えてみたい。ここでは手元にある金子宏の『租税法』を参考にする。金子宏の『租税法』はおそらく租税法で一番読まれている体系書・基本書であろう。考察のベースにするにはピッタリだ。

 

金子によると日本の消費税は学問上『多段階一般消費税』という大きなカテゴリの中で「附加価値税」方式を採用しており、その計算は『帳簿方式』と呼ばれるものを用いている。そしてインボイスの導入により計算方式が『帳簿方式』から『インボイス』方式へ変更となる。

 

この『附加価値税』方式と『インボイス』方式の組み合わせは、EUをはじめとする多くの国々で採用されており、事実上国際的な消費税のスタンダードとなっている。この税金は海外ではVAT(Value Added TAXの略)と呼ばれている。直訳すると『附加価値税』である。日本のように『消費税』という表現を用いていない。この『附加価値税』方式とはどのようなものか、金子は次のように書いている。

 

・附加価値税
各取引段階の附加価値を課税標準として課される一般消費税である。附加価値というのは、原材料の製造から製品の小売までの各段階において事業が国民経済に新たに附加した価値のことであり、生産国民所得の観点からは、事業の総売上金額から、その事業が他の事業から購入した土地・建物・機械・原材料・動力等に対する支出を控除した金額であり(控除法)、分配国民所得の観点からは、賃金・地代・利子および企業利潤を合計した金額である(加算法)。

 

(~途中略~)

 

ただし、フランスをはじめとするEU加盟各国において、税額算定の仕組として実際に採用されているのは、上記の控除法または加算法ではなく、「仕入税額控除法」または「前段階税額控除法」と呼ばれる方法、すなわち課税期間内の総売上金額に税率を適用して得られた金額から、同一課税期間内の仕入に含まれていた前段階の税額を控除することによって、税額を算出する方法である。附加価値税を採用している他の国々も、一般にこの方法を用いている。いうまでもなく、この方法によって算出される税額は、控除法または加算法によって算出される税額に等しい。*4

 

要約すると、附加価値税は附加価値をベースに税金をかけるもので、その計算には3つのパターンがあり、計算結果はどれも同じ税額になると書いている。上記文章を計算式におきかえると次のようになる。

 

(1)控除法:総売上-(土地・建物・機械設備・原材料・動力等)
(2)加算法:企業利潤+賃金+地代+利子
(3)仕入税額控除法:(総売上*税率)-仕入に含まれていた税額

 ※附加価値税=(1)=(2)=(3)

 

附加価値税というひとつの税金を(3)の『仕入税額控除法』から注目して眺めると、『預り金的性格』、『消費者に対して課される税』としての側面が強調されて見える。名称を日本のように『消費税』とすれば、なおさらである。(1)の『控除法』や(2)の『加算法』から注目して眺めると『利益(=附加価値)に対する税』という側面が強調されて見える。どちらも元をたどれば同じ『附加価値』に課税しており、式を変形させただけにすぎない*5。多くの人を惑わす原因はここにある。

 

ただし、式の変形だけで済まされないものが税の転嫁である。(1)の『控除法』及び(2)の『加算法』はダイレクトに企業の附加価値に課税するため、価格への税の転嫁が問題となる。日本では1950年にシャウプ勧告により加算型の附加価値税が検討された。これは企業の利益に対する課税であり、消費者への税の転嫁を予定していないものであった。(3)の『仕入税額控除法』は消費者への税の転嫁が前提となる。つまり同じ附加価値税であっても、前者は企業への税。後者は消費者への税となる。前者の場合でも最終的に価格に反映されて消費者が負担することは当然に考えられる。しかし後者の場合は一斉に価格の上昇をもたらし、消費者に対する増税であることが鮮明になる。

 

・消費税の転嫁について

 

ここからが本題。

 

消費税は『附加価値税』であり、消費者への負担を前提として設計されている。ただし消費者への負担を前提としているだけで、その消費税の負担を商品の価格に転嫁できなければ、一転して企業に対する税になってしまうのである。先ほど見た計算式の通りだ。消費税は消費者が負担する税か事業者が負担する税かは、じつに紙一重の差なのである。そしてそれはインボイスを導入したからといってスッキリと解決する問題ではない。インボイスという紙の上では「消費税」が記載されることになるが、転嫁されているかどうかは別の問題である。

 

インボイス先進国のヨーロッパでは転嫁問題はどのように認識されているのだろうか。調べてみると古くからインボイスを導入しているフランスやイギリスでは消費税率が上がった分を一律に引き上げているのではなく、商品の特徴に応じて価格の上げ幅を変え、売上全体で税率引き上げに伴う負担の増加をカバーする方法を採用しているそうだ。*6

 

イギリスでは2010、2011の両年とも1月に消費税率が2.5%ずつ上がりました。その直前の秋からはクリスマス商戦が始まります。クリスマス商戦は需要が強いですから、価格を少しぐらい上げても売れます。そうして価格を消費税の引き上げ期日と連動させずに、需要の高いときに価格を上げて、マージンを確保しようとしたのです。

 

クリスマス商戦後には需要が落ち込みますので、この状況の下では、消費税率が引き上げられているのに価格を下げて販売数量を確保していきます。

 

(~途中略~)

 

事業者にとってはマージンを確保することが最大の目的であり、商品ごとに転嫁することが目的ではありません。消費増税にもかかわらず自分のマージンが確保できればいいわけで、転嫁すること自体が重要というわけではありません。*7

 

商品価格に増税分をいっせいに転嫁するのではなく、需要と供給を見極め自社のマージンを最大化するための値付けを行っている。これはまさにVATが『附加価値』に対する税ということを理解したうえでの企業行動だといえる。

 

・日本の『価格』事情

 

資本主義経済では価格の決定は企業の自由である。『値決めは経営である』*8という名言もあるぐらいだ。消費税が上がろうが誰も値決めに口出しすることはできない。利幅を少なくして多く売るのか、それとも少量であっても利幅を多く取るのか経営者は絶えず判断を迫られる。今のように物価上昇が続くなかで値決めを間違えれば廃業に至ることもあるだろう。

 

日本は世界からみて異常なほど、値上げが困難な市場である。

少し前になるが全農の意見広告がいっせいに大手新聞に掲載された。

そこには次のように書かれていた。

 

SDGsの時代に、
日本の農畜産物が持続可能な価格で
売られていないのはなぜだろう。

 

安さは正義だ。
そんな風潮の中、なんとか頑張ってきた日本の農畜産業。
もう限界です。
どうか、高騰し続ける生産コストに見合う
持続可能な価格を認めてください。
それが食の安全・安心を守ることにつながり、
日本の農家と消費者、そして食の流通に関わるすべての人の
未来を守ることにつながると信じています。
これからも持続可能な農業経営ができるよう、
ぜひ、この問題を一緒に考えてください。*9

 

値上げをするために新聞に意見広告をだし、消費者に対し『持続可能な価格を認めてください』と、ここまで『懇願』せねばならない状況なのである。

 

繰り返しになるが消費税は値上げの難しい日本で、値上げをしなければそのまま業者の負担になってしまう税である。価格の競争力がなければ淘汰されることにもなるだろう。

 

インボイス導入後も『附加価値税』という消費税の本質は何も変わらない。

 

 

*1:ホリエモン、インボイス巡る「消費税『着服』してたくせに」発言波紋も... DaiGoは批判を疑問視「コントロールしやすい国民に成り下がったものだ日本人は」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

*2:消費税法

*3:とはいえ価格の一部なのだから、受け取っても問題はない。

*4:金子宏『租税法第二十版』p679

*5:ちなみに現政府税制調査会会長の中里実も著書の『租税史回廊』で「日本では通常間接税として理解されている附加価値税が、実は、企業が生み出した附加価値に対して課税される企業課税であるという点において、法人所得税と極めて類似しているということに関する正確な理解が重要である。」(p56)と書いている。残念なことに政府税調ではそのような『企業課税』という視点はまったく見られない。

*6:消費税率変更の影響はなぜ日本で大きくなるのか~欧州諸国との比較(上)〈政策データウォッチ (8)〉 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

*7:RIETI - 消費増税前後の経済変動はなぜ生じるのか

*8:稲盛和夫

*9:新聞広告 国産農畜産物の消費拡大 | JA全農

映画:君たちはどう生きるか(感想)

宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を先週観てきた。

宮崎駿の映像は嫌いではないが、観終わった後にうっすらとした喪失感が残った。自分の頭の中を整理するためにこの”うっすらとした喪失感”について書き残しておく。

 

この映画は吉野源三郎の同名小説からタイトルがつけられているが、内容は小説とは関係がない。ぼくはこの本を大学卒業後に読み、自分の生き方に少なからず影響を与えている(と思っている)。普段宮崎アニメに特別な期待をせずに観ていた自分だが、今回はこのタイトルのせいで作品に対する期待が高かった。もちろん広告を一切しないというマーケティングも期待値を高める効果があったように思う。

 

ストーリーは難解で一見して理解できないものの、監督の「自分語り」のような視点が全体を覆っており、「監督がどう生きたか」という空気で満たされていたように感じた。そしてなんとなくではあるが、この映画は、「教養」と呼ばれたものを葬り去っているような直感がした。

 

ぼくが原作の小説で一番印象に残っているところは、叔父さんが「学問」を小学生にもわかるように書いているところだ。

 

「本当に人類の役に立ち、万人から尊敬されるだけの発見というものは、どんなものかということだ。それは、ただ君がはじめて知ったというだけでなく、君がそれを知ったということが、同時に、人類がはじめてそれを知ったという意味をもつものでなくてはならないんだ。」

 

「僕たちは、できるだけの学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことが出来ないでいる問題のために、骨を折らなければうそだ。そのうえで何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことが出来る。また、そういう発見だけが、偉大な発見といわれることもできるんだ」

 

「偉大な発見をしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。そして、その頂上で仕事をするんだ。」*1

 

映画に登場する大叔父は、小説にでてくる叔父さんとは全くの別人なのは言うまでもない。大叔父は「本を読みすぎて、頭がおかしくなった人」であり、「死んだ過去の世界に生きている人」であり、それでもなんとかバランスをとりながら、「次世代に引き継ごうとする人」であった。そして現実を生きようとする主人公が決別する相手であった。

 

ぼくには大叔父と叔父さんは別人なのは百も承知の上で、なお、この映画からは”人類の役に立ちたいなら学問の頂上にのぼり切れ”という叔父さんの声を、「学問は現実には役に立たない」と切り捨てられたように感じた。それは本の山に埋もれて、世界を維持しようとする大叔父の姿と、それと決別する主人公からそれを感じたのかもしれない。映画全体を覆っている空気からかもしれない。先人たちが破滅の中から育ててきたものの承継を拒否したように見えた。叔父さんの「学問」というキーワードを「教養」や「戦後民主主義」などに置き換えてもいいかもしれない。それらは確かに不確実で、有事が多発する現実の世界では特効薬として役に立たないように見える。しかし特効薬ではなく漢方薬のようにじわじわ体質を変える力はまだまだあるはずだ。

 

何かを期待しに観に行ったら、ただただ現実を見せつけられた。そんな気がした。唯一救いがあるとすれば主人公は「君たちがどう生きるかを」鞄にいれ、現実を歩もうとしている部分だけかもしれない。

 

多分に思い込みや妄想が含まれた感想だが、観終わったあとのうっすらとした喪失感の中身はそんな感じです。

*1:岩波文庫、p94~95

庵野秀明と黒澤明(殺陣の否定、マルチカム撮影)

・殺陣の否定

少し前に「シン・仮面ライダー」のメイキングが賛否両論を巻き起こしていた。僕自身まだ映画を見ていないのでなんとも言えないが、そのドキュメンタリーの中で庵野監督はしきりに次のことを強調していた。

 

≪頭の中が殺陣でいっぱいになってる≫

≪やっぱり組み手は組み手にしか見えない≫

≪殺陣ではなくて殺し合いを演じてもらえれば≫

≪「技を決めよう」という意識ではなく「相手を殺そう」という意識≫

≪もう全部アドリブでやってほしいくらい≫

≪段取りなんていらないですよ≫

≪ただの段取りです≫

 

要するに殺陣(たて)の否定である。

 

最近黒澤明の映画を立て続けに観ていた。そこには庵野監督が望んだ“殺陣の否定”がきっちりと画面に繰り広げられていた。

 

黒澤の戦闘シーンは本当に生々しい。「羅生門」における武士と盗賊の戦闘シーンは、お互いに睨みをきかせて真剣勝負というものからほど遠い。地べたを這いつくばり、刀を落とし、必死でその刀を探し回り、逃げ回り、殺す方も、殺される方もどこか及び腰だ。どちらも殺されるのも怖いが、殺すのも怖いというなんともいえない空気がただよっている。とても無様で格好の悪い戦いシーンだ。しかし本当の殺し合いとはこういう、無様で格好の悪いものだったのではないかという黒澤の答えがここにはある。

 

先日たまたま「『七人の侍』と現代」という本を読んでいたら、そこに黒澤明による”殺陣の否定”についての考察が書かれていた。

 

(黒沢が書いた『殺陣師団平』の脚本の一部である。マキノ雅弘監督により映画化されている。団平は師匠澤田のもとで殺陣の修行をしている。あるとき団平は師匠に問いかける。)

 

団平:「先生、あの立廻りはただ客よせのためにやったんでっか?それがなんで写実だす。なんでリアリズムだす。ええ先生。わてには分からん、立廻りで客寄せして、客が集まったら今更立廻りをソデにする、わてにはそんな不人情なことは出来ん、出来まへん」
澤田:「団平。お前にはわからんのだよ、俺たちは決して立廻りへの愛情は失っていない・・・しかし何時までもそれに溺れてはいられないんだ(・・・)これからはもう立廻りのための立廻りはやれん、それが時代」(黒澤明「殺陣師団平」脚本)

 

歴史的にいうならばこれは誤りである。澤田正二郎はどこまでも立廻りに改革を導入したのであって、それを「リアリズム」の名のもとに廃棄したわけではないためである。この一説では脚本家の黒沢明が澤田の口を借りて語っているのだ。黒澤は殺陣の起源を見据えた上で、これからの映画はそれに拘泥せず、新しい身体動作の文法を築きあげなければならないと説いているのである。

 

(~途中略~)

 

もはや舞踏のように様式化された殺陣はいらない。これから向き直らなければならないのは、現実の戦いの場でなされてきた仕種をいかに力強く再現するかという問題である。

 

(~途中略~)

 

七人の侍では)黒澤明は菊千代を、思慮の欠いた成り上がりの侍と見ているわけではない。武士という偏狭な観念に捕らわれず、戦闘という行為を合理的にかつ実践的に把握する戦士として、勘兵衛とはまた違った意味でその才智に敬意を払っている。それがもっとも顕著に示されるのは決戦の早朝、菊千代が村の辻に一抱えの刀を運んでくると、やわらに鞘を捨て、六本を土に突き立てる場面である。彼は同胞の侍にむかって「一本の刀じゃ五人と斬れねえ」と語り、景気づけのため叫び声を立てる。おそらくこの場面こそ、黒澤明が半世紀に及ぶ殺陣の伝統を完全に否定した瞬間であった。これまで何十人の相手を斬り倒しても額に汗もかかず、太刀にいささかの刃こぼれも見られてはならないという時代劇のお約束ごとが、この菊千代の科白によってものの見事に葬り去られたのである。*1

 

・マルチカム撮影

ドキュメンタリーでは庵野監督がたくさんのiphoneを並べて様々なショットを撮り、そのなかから面白い映像を選び編集する手法が取られていた。

 

たまたま黒澤明wikiをみていたらマルチカム撮影のことが書かれていた。マルチカムというのは複数のカメラで同時に様々な角度から撮る手法である。「七人の侍」では8台の望遠レンズを用いて同時に撮影。役者はカメラを意識しなくなり、思いがけない映像や普通の構図では考えられない面白い画面効果が得られるとしている。しかも黒澤明はこのマルチカム撮影を世界で初めて考案し、採用した監督らしい。

 

黒澤の撮影方法は、複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた。(~途中略~)黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている。(~途中略~)

編集作業は黒澤自身が行った。黒澤は撮影を素材集めに過ぎないとし、それに最終的な生命を与えるのは編集であると考えていたため、他監督の作品のように編集担当に任せることはせず、自分で編集機を操作した。マルチカメラ撮影法を採用してからは、複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした。*2

 

「シン・仮面ライダー」のメイキングから庵野監督の異常なこだわりが伝わってきたが、ひょっとすると”殺陣の否定”や”マルチカム撮影”など黒澤映画に多大な影響を受けていたのかもしれない。

 

 

*1:四方田犬彦:「『七人の侍』と現代」、p90-97

*2:Wikipedia黒澤明より

映画:「かぐや姫の物語」(考察その4)

 

考察その3からの続き

 

・私たち自身の物語

かぐや姫の悲劇は「地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語」と企画書に書かれている。実際に映画は「生きる」ということが主題として描かれている。おおざっぱに区切ると映画前半では豊かな自然と豊かな人間関係に囲まれた”生きている姫”が描かれ、後半では”生きれない姫”、”死にたい姫”が描かれている。後半からは延々と悲劇を見せつけられることになる。それらが現代に生きる人の悲劇と重なり、映画の中で観客は”現実を見せつけられる”ことになる。エンディングでは観客自身が”生きる”というテーマを自分事として考えずにはいられなくなる。

 

ところで、これだけ”姫の悲劇”を見せつけられる一方で、監督からは「地球の肯定」や「現世の肯定」など相反するような視点からも語られている。どういうことだろうか。

 

インタビュアー:人間的な感情や欲望があり、さまざまな色に満ちている人間界というものがそもそも罪なんだということですよね。しかし、すべて純潔で清浄な月世界にとってはそれは罪だけれど、当の人間にとってはかけがえのないことであって、その罪や穢れも含めて現世を肯定しようという意志を感じました。

高畑:まさしくそういうことです。*1

 

これだけの悲劇をみせつけられて、それでも現世の肯定しているのか。疑問が残る。同じようにアフレコ途中の地井武男氏とも次のようなやりとりがある。こちらの方が監督の主張がより明確でわかりやすい。

 

地井:わからないことだらけなんで、いろいろ教えていただかないと。なんで突然月からきて、また突然帰ってしまうのか?この地球にいる我々が持っている欲望とかそういうものに対する警鐘みたいなことなんですか?

高畑:困りました。

地井:乱暴な言い方だけど地球は否定した方がいいのか肯定した方がいいのか。

高畑:地球がいいと言っているつもりなんです。これだけで。地球がよくてせっかく来たのに月に帰らなくてはいけなかった。地球を十分享受しないまま帰ってしまうんです。この子は。地球肯定の作品なんだけど、それをひっくり返して描いている。せっかく来たのに十分地球を楽しむことなく後悔しながら帰るという。*2

 

地球は肯定しているが、それをひっくり返しているという点がポイントである。単純に肯定しているわけではない。地球には魅力がたくさんあるが、それを享受することができない悲劇を描いているというわけだ。悲劇までをも全肯定しているわけではなく、悲劇は悲劇として監督は認識している。

 

・漫画映画の志

高畑は「漫画映画の志」でグリモーの「やぶにらみの暴君/王と鳥」を批評し、平和のために「役に立つ映画」について次のように自説を述べている。この作品は日本公開時に「スタジオジブリの原点」と宣伝されている。

 

作品の根底にあったのは、人も生き物も草木も、太陽と地球が与えてくれる単純で美しい《地球の不思議》を享受しながら、生き生きと生きることができなければならない、という思いです。


(~途中略~)


そういう《世界の不思議》を享受する自由を奪われないために、そして、その自由を奪われている他人の不幸に思いをいたし、それを取り戻させるために、はっきりと役に立つ漫画映画とは何か。ほんとうに「役に立つ」ためには、自由を妨げる専制や抑圧や戦争に反対する「心意気」を打ち出したり、映画の中で首尾よく正義に勝たせて観客の「善意」や「正義感」を満足させたりするだけでは足りない。個々人がまず、世の中がどういう仕組みになっているかを感知し、この世にはりめぐらされた「罠」に気をつけ、しっかりと目を見開いて生きようとすること、そしてときに自由意思で人と手をつなぎ合う必要性を感得すること。これらに役立ってはじめて、「役に立つ」と言えるのだ、と二人は考えていたとはわたしは思います。こういう言葉を使うことをプレヴェールやグリモーは嫌うかもしれませんが、いわば、自由な個々人による民主主義の基盤づくりに役立つ映画です。*3

 

高畑はこの批評のあとにグリモーの「志」を少しでも受け継げたか「ジブリの原点」などと呼んでよいのかについて自己批判を行い、反省している。

この本が出版されたのが2007年5月であり、かぐや姫の制作決定が2008年5月である。高畑の頭の中に「漫画映画の志」がないはずがない。

 

高畑は、かぐや姫が「生きる手ごたえ」を求めたように、観客の中にも「生きる」とは何かという「種」を残し、それがいつか芽吹くことを望んだのではないだろうか。

 

・おまけ:マルキストの香り

かぐや姫の物語」は日テレの会長であった氏家齊一郎パトロンとなり資金を出した映画である。氏家氏が高畑にほれこんだ理由に「マルキストの香り」をあげている。先の「地球を肯定しているが、それを享受できない人類」という構図はマルクスの”疎外論”に通じている。マルクスの”疎外論”とは次のようなものである。

 

「人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出すること。また、その中での、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態」(大辞泉

 

この「疎外」を「かぐや姫の物語」に当てはめると、

 

自然や生き物などの肯定すべき美しい「地球」がある一方で、人間が作り出した社会制度、貨幣制度、身分制度、またそこから派生する格差(高貴の姫君という虚像の幸せ、木地師や捨丸)、それらが逆に人間を苦しめ、人間本来の自己を喪失した状態

 

と言い換えることができるかもしれない。マルクス疎外論もまた今なお解決していない人類の課題である。映画では木地師の生業を丁寧に描いている。このような循環型経済が地球や自らの生を享受するためのヒントとして呈示しているようにもみえる。

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:ユリイカ2013年12月号p73

*2:メイキングDVD:かぐや姫の物語をつくる。(挑戦編)

*3:高畑勲「漫画映画の志」p271-272

映画:「かぐや姫の物語」(考察その3)

 

考察その2の続きです。

 

東映動画時代の企画

企画書ではしきりに「隠されているはずの挿話を掘り起こす」、「かぐや姫の本当の物語を探り当てる」と書かれている。「隠された挿話」が何かを探るまえに、東映動画時代の企画をおさらいしておく。当時のコンセプトはざっくり次のようなもので、当時この企画は面白くなる確証はなく、会社へ提出しなかったそうだ。

 

姫は地球から帰還した女(羽衣伝説の一人)から地球のことを聞いて、彼の地に憧れる。禁を破って帰還女性の記憶を呼び覚ましたことが発覚し、姫は、地上の思い出によって女を苦しめた罪を問われる。そして罰として、姫は地球におろされることになる。みずからもその穢れた世界で苦しむようにと。姫が「死んでしまいたい」「こんなところにいたくない」とかのテレパシーを送ってきたならば、その時点で地球が穢れた世界であることを姫みずからが認めたのだから、罪の償いが終わったものとして、直ちに迎えを差し向けること。お迎えが来る時点であれほど激しく嘆き悲しむのは、自分が「何のために来たのか」が自覚されてきて、地上のすばらしさを満喫することのないまま、そしてみずからの「生」を力一杯生きることのないまま、帰らなければならなくなってしまったことを悔やむ涙だった…。*1

 

これを読むと、大きな枠組みは当時のまま「かぐや姫の物語」に使われていることがわかる。

 

・「隠された物話」とは

東映動画時代の企画は「罰」としてどのように苦しむか、なぜ帰りたいというテレパシーを送ることになるのか、具体的な物語の中身はまだ書かれていない。その中身がしきりに言及されている「隠された物語」である。

 

もしこれが真相だったとすると、『竹取物語』には「隠された物語」が内包されているはずである。それを運良く探り当てることができれば、物語の基本の筋書きは変えることなく、また、そのときどきのかぐや姫の感情もそのままに、面白くてかなり今日的な物語を語ることができるのではないか。そしてかぐや姫の気持ちを、その悲劇を、より切実なものとして訴えることができるのではないか。それはとりもなおさず、地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語でもありうるのではないか。*2

 

「隠された物語」とは映画全般にわたり繰り広げられる姫の物語である。「竹取物語」では姫の物語は積極的に描かれていない。あえてそれを描くことで、人類の悲劇を浮き彫りにする。これが「竹取物語」を現代によみがえらせる意義であり、原作を換骨奪胎した理由でもあり、罪と罰というテーマを暗示にとどめた理由でもある。

 

考察その4に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:企画書要約&抜粋

*2:企画書抜粋

映画:「かぐや姫の物語」(考察その2)

 

考察その1の続きです。

 

・「かぐや姫の物語」は「竹取物語」の謎解きか?

高畑は原作の「竹取物語」の”本質”を裏切りを“換骨奪胎”し、かぐや姫側の物語にスポットを当てる。そこに”隠されているはずの挿話”を掘り起こし、原作では未解決だった数々の疑問にも高畑流の鮮やかな解を与える。「竹取物語」を古典ではなく現代劇として作り替える。それでいて、あたかも原作に忠実なようにみせる。どれも常人には成し遂げられない恐るべき仕事である。

 

高畑は原作を“換骨奪胎”し、数々の解を与えることで何を描きたかったのだろうか。単なる古典の謎解きをしたかったのだろうか。現代にこの作品を作る意義をどうとらえていたのだろうか。知りたい。

 

プロデューサーの西村が高畑にストレートな質問をしている。

 

 高畑監督の「かぐや姫」の企画書を読んだときにまず抱いた感想が、「銀河鉄道の夜」の印象と似ていたと述べた。その理由の詳細について書いていこう。

 「竹取物語」の作中で具体的には明かされていない、かぐや姫の犯した罪の内容。その謎を綿密な推理と豊かな想像力によって解き明かしていく行為は、この上もなくスリリングで、有意義であろうことは容易に想像がついた。既存のテキストに対してひとつも嘘をつくことなく、しかし同時に、確かにこうであり得たかも知れない、という新機軸の解釈を打ち出せたとしたら、世紀に残る大傑作になるだろう。日本人なら誰もが知っている作品でありながら、誰もが見落とし、誰もが手をつけてこなかった宝の山がいま目の前にある。想像するだけでワクワクした。

 しかし一方で、謎として残されていたはずの聖域に踏み入り、一義的に解釈を固定してしまうことで、作品が本来持っていたはずであろうミステリアスな魅力は減じてしまうのではないか、という懸念もあった。謎は謎のまま放置されているからこそ面白いという側面もあるかも知れない。全てを明るみに出すことが最良とは限らない。ちょうど、すべての謎を詳細に解説してしまうブルカニロ博士の扱いに、他ならぬ賢治自身が辟易としたように。

 「かぐや姫」も同様に、丹念に積み上げたものを、どんどん解体していくことでしかその魅力を表現することのできない作品なのではないか。すなわち本作は、「決して完成させることのできない作品」である事実を証明するための企画なのではないか。そういう直観を僕は抱いたのである。

 

生意気にも僕は、こうした感想を率直に高畑監督に伝えた。監督は怒りもせずじっと耳を傾けていたが、話を聞き終わるとタバコに火をつけしばらく黙していた。それからおもむろに口を開いた。「あなたの銀河鉄道の話は興味深かったです。特にいくつかの点については、ほぼあなたに同意できます。でも、この企画に同じ分析が当てはまるとは思えません」

 僕はあっさり自説を引っ込めた。違うというなら違うのだろう。しかし今考えてみるに、実はこのときの発言によって、監督は僕と話す時間を設けることを善しとしてくれた気もする。「この作品はきっと完成しないと思います。」そういう天邪鬼な言葉にこそ、高畑監督は注意深く耳を傾けるタイプの人間であることは、後になってだんだんと分かってきた。*1

 

西村は原作の謎に解をあたえることで、作品の解釈を固定化し、逆に魅力を失わせるのではないか。そのため全てを明るみにするより、積み上げたものを解体することによって魅力を表現すべき作品なのではないか、と自説を問うた。しかし高畑は西村の分析は自分の企画には“あてはまらない”と答えている。これ以上の発言は書かれておらず、なぜ “あてはまらない”のかは語られていない。しかし、ここでは少なくとも単なる謎解きではないことは読み取れる。

 

鈴木敏夫のキャッチコピー

鈴木敏夫は「かぐや姫の物語」を売り出すためにチラシやポスターに「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーをつけた。高畑は「アニメーション、折にふれて」のあとがきにそのことを書いている。

 

チラシやポスターの「姫の犯した罪と罰」というセンセーショナルな惹句が私にはつらくて、それが原作『竹取物語』に根拠をもつものであることを明らかにしておきたかったのです。*2

 

書籍のあとがきにわざわざ書くぐらいだから、よほど気に入らなかったのだろう。しかもこの文章の続きに高畑の「罪と罰」のコンセプトを解説する文章をわざわざ付け加えるほどの念の入れようだ。

 

罪と罰」は原作の『竹取物語』に由来するものであるが、原作では謎のままであった。東映動画時代の企画案では、月の王(父王)がかぐや姫罪と罰について語るシーンが描かれていた。今回の企画書にもそのことが書かれており、先の西村とのやりとりもそのことについてである。当初の脚本にもそのシーンが書かれていただろうと想定される*3。しかし実際の完成版ではこの父王と姫の「罪と罰」のシーンはばっさりカットされた。高畑は巻末の一文でそのことを書いている。

 

しかし、私はこのシーンを冒頭につけることをしませんでした。『竹取物語』には描かれていない「かぐや姫のほんとうの物語」を探り当てさえすれば、プロローグなどなくていい。物語の基本の筋書きはまったく変えないまま、笑いも涙もある面白い映画に仕立てられる。そしてかぐや姫を、感情移入さえ可能な人物として、人の心に残すことができるはずだ。私はそんな大それた野心を抱いて、『かぐや姫の物語』に取りかかりました。*4

 

完成版では「罪と罰」のコンセプトをカットした(暗示にとどめた)のに、キャッチコピーには「姫の犯した罪と罰」とある。またこのキャッチコピーのために本編も少し直したそうだ*5。このキャッチコピーは「独り歩き」しだし、ネット上ではこの「罪と罰」が作品の主題であるかのように考察されているページも多々みられる。高畑が不満に思うのは自然だと思う。その後キャッチコピーは太田光の案にもとづいて「あゝ無常」と変更された。

 

 

その3に続く

 

考察その1

考察その2

考察その3

考察その4

 

*1:西村のブログ「悲惨日誌」スタジオポノック 公式ブログ - <悲惨日誌 第40回>【特別寄稿】サクティ「決して完成させることのできない作品」(後編)

*2:高畑勲「アニメーション、折にふれて」p370

*3:その証拠にノベライズ版「かぐや姫の物語」にもそのシーンがしっかり描かれている。

*4:高畑勲「アニメーション、折にふれて」p371

*5:ユリイカ2013年12月号p73

旅行:広島(その2)

 

2日目は呉の大和ミュージアムを中心に歩いた。たくさんの来場者でにぎわっていたが、こちらは平和公園周辺とは違い女性や外国人は少なく感じた。

 

常設の展示は、呉が明治時代に鎮守府として選ばれたところからはじまり、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続き、その中での人々の生活などなど、呉だけでなく日本の歴史の流れがわかるように展示されていた。ところどころでモニタを使った解説もあり、わかりやすく好感が持てた。

 

ミュージアムのメインは大和なので常設展のど真ん中の一番大きなスペースのモニタには戦艦大和の技術力を誇る内容と、それらが戦後復興に役立ったことが大々的に映し出されていた。当時史上最大、最強の戦艦を作った日本の技術力を誇る内容で、その技術が今の日本の産業の現場にも形を変えて生きているといった内容だ。

 

また大和の沖縄特攻作戦で犠牲になった者に対する追悼のスペースも多くとられていたが、そこにそえられた言葉は、すぐに意味を読み取るには難しく、国家のための死を今なお肯定するかのようにも読め、なんとも言えない気持ちになった。

 

 

「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚めることが最上の道だ 日本は進歩ということを軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」(「戦艦大和の最期」吉田満

 

それらの展示物をぐるっと回ると1/10巨大な大和の模型をはじめ、人間魚雷、そしてゼロ戦が展示してある*1。先ほどみた沖縄特攻作戦で亡くなった人にそえられた言葉がまだ頭に残っているなかでのそれらの展示はどこかスッキリとしない。

 

ミュージアムショップには大和のプラモデルや日章旗旭日旗が並びエンタメ消費的な軽さを感じた。外国の方が見たらどう思うのだろうか。侵略された側から見れば恐怖に感じるかもしれない。

 

その後、てつのくじら館や入船山記念館をめぐり、歴史の見える丘まで歩いた。歩くとよくわかるが造船所や海自関連施設、海自の宿舎など、呉はいまだに軍都としての性格を維持しているように見える。

 

大和ミュージアムを含め呉はとても刺激的な場所だった。私は大和については何も知らない。大和が沖縄特攻作戦という片道燃料で必負の作戦に挑んでいたということも初めて知った。吉田満が書いた「戦艦大和の最期」にも興味がある。そこでの乗組員の心理や、なぜ無謀な水上特攻が行われたのか。知りたいことが山ほどある。戦時中における日本の特殊な状況が大和には詰まっている気がした。これをきっかけにいろいろと学びたい。

 

 

・旅行行程(メモ)

9/16

4:50 起床

6:3 サザン乗車(和歌山市→なんば)

7:30 新大阪

8:19 のぞみ79号

9:40 広島駅着

広電で原爆ドーム前に移動し散策。

原爆ドーム、平和記念館、原爆死没者平和記念館、レストハウス本川小学校、袋町小学校など。

 

9/17

7:37 広島駅→呉(普通電車)

8:15 呉駅着

大和ミュージアム、てつのくじら館、入船山記念館、歴史の見える丘など。

19:10 広島駅発のぞみ58号

20:31 新大阪着

*1:ちなみに和歌山の白崎海岸には人間魚雷回天の発射基地があったそうだ。